行く末トーキー

はじめからはじめよ

何を観るか、どう観るか

あるいは「好き」という感情との向き合い方について。

なんだかわからんけどメソメソしてるので、来週あたりに笑い飛ばすように書いておく。検索で引っかかったりしないように、固有名は出さないでおくけど、まぁバレバレなのは仕様です!


世の中には娯楽作品がたくさんあふれている。舞台、映画、テレビドラマ、漫画、物語、エトセトラエトセトラ。その中から自分が「何を」選ぶか、というのがとてもむずかしい。

今、私は「推し」と呼んでいる人を基準として選んでいる。推しが出るから見た作品が結構増えてきた。

でも、この選び方が本当に私に合っているのかなぁ、と不安になる時がある。

たとえば今月の話。主に2つの作品に注目してた。

  • 推しが出ていない作品(A)
    • シリーズものの完結作。前作を見てとても心に刺さった
  • 推しが出ている作品(B)
    • ビジュアルの完成度は高い。 ただどんな話なのかは全くわからない

これまで、私の中で、なんとなく「推しが出ていない作品は、推しが出ているものよりも回数を抑えておこう」という意識があった。でも蓋を開けてみれば、Aを見た回数はBの2倍以上になっていた。

これが、Bのチケットが大激戦で、これ以上増やせない!という状況だったらまだなんか違ったかもしれない。けれど、Bのチケットはそれなりに入手しやすい状況にあった。公式でも買えたし、譲渡とかも探せばあったと思う。だけど、私は私の決断で、Bのチケットを増やさなかった。

自分の中で、推しの「ファン」としてこうあるべき、という像にヒビが入ったような気がした。気がしたも何も、全部自分の行動なんだから、私は自分の中で決めていたルールに反したことになる。

Aをたくさん見たことも、Bを増やさなかったことも、私の中で一切後悔していない。けれど、これからも「推しのファン」と名乗っていいのかなぁというぼんやりとした不安だけが残っている。


「推しのファン」ってどういうことなんだろう、ということを考える。

私が推しのことを知ったのは、それ以前から入れ込んでいたゲームの舞台化がきっかけだ。自分が好きなキャラクターが大事に演じられているさまを見て、この人はどんな人なんだろう、と思った日をよく覚えている。

その作品が一旦の集大成を迎えてから、そろそろ1ヶ月が経つ。千秋楽後のブログやニコ生の様子から、少なくとも現時点で「次」の予定は知らされていない…のかなぁ、と推測している。これが外れてたら大いに笑ってほしい。私も爆笑する。

「このキャラクターを演じる推しのファン」というのも、ひとつの「ファン」としての在り方だと思う。でも私はどこかで、そういうファンと私は違う、と考えていた。きっかけは確かに特定のキャラクターだったけれど、私は「推し本人」のファンなんだと思っていた。

けれど、Bを観ながら、この作品で得たものが「あのキャラクター」に繋がることは(現時点ではおそらく)ないのだ、と気づいた時、自分でも驚くくらいに空虚な気分になった。

推しを追い始めてから1年半、出演作はすべて1回は現地へ見に行っている。イベントはそうでもない(地方のとかあるし)。右も左もわからない状況から、よくここまで食いついてこれたなぁと自分でも驚いている。これからの予定も自分のなかでは満足いくように抑えてある。

今考えると、どの作品も、いずれは「あのキャラクター」に繋がるんだ、と思っていた部分がある。この作品で得たものが、いずれ「あのキャラクター」の演技に生かされるんだろうなぁ、と考えながら観ていた部分を否定できない。それだけ私は「あのキャラクター」を溺愛しているし、推しが演じる「あのキャラクター」を楽しみにしていた。すべての道はローマに通ず、じゃないけれど、なんか似たようなことを考えていたのは事実だ。

この道は「あのキャラクター」につながらないかもしれない、と思った時、じゃあもういいや、と諦めたくなった自分を受け入れられなかった。疲れてんのかな。そうだと思いたい。誰かそうだと言ってくれ。不確定な未来を悲観しているだけだと笑い飛ばしてくれ。

もちろん、いつまでも同じ役を演じ続けられるとは思っていないし、演じ続けるべきだとも考えていない。「推しのファン」としての私は、今後推しがいろんな役を演じてくれることを望んでいる。けれどどこかで「あのキャラクター」以上に愛せる役はいないんじゃないかと恐れる自分もいる。何を観ても「あのキャラクター」と比べてしまう、そんな愛し方で「ファン」と名乗っていいんだろうか。

多分ね、どういう愛し方でも、法と規則を守り、自分が納得する範囲で公式にお金を落としていれば、ファンを名乗ってもいいんだと思う。私も理屈の上ではそう考えている。けれど私自身が私自身の在り方に納得できない。私が観ている「推し」というのは、私が都合のいいように作り上げた幻想か何かなんじゃないかという不安が拭えない。勝手に期待して勝手に好きだと言って、勝手に幻滅して勝手に去っていく。まぁ推しのファン数から考えると私が何をしようが向こうにさして影響はないと思うけれど。

言っちゃえば自信がないんだよね。

これまでずっと「好き」って書いてきたし言ってきたけれど、それは本当に「推し」が届けてくれた夢なんだろうか、私が勝手に考えて勝手に押し付けているだけなんじゃないか。この「好き」という感情は、私が扱うには少し曖昧すぎる。言葉にした瞬間から色が変わっていってしまう。

好きの形は人それぞれだから、これは本当にしょうもない問題でもある。誰が何を言ったとかではなく、私が私を認められるか、その1点にすべてが懸かっている。

私は推しを好きだと言いたい。私が「推し」を好きだという気持ちを認めたい。けれどそのために何が必要なのか、全く見当もつかない。

ねぇ推しさん、私はちゃんとあなたを受け取れていますか?