行く末トーキー

はじめからはじめよ

声の染みた文字 ― リーディングドラマ「シスター」

急に涼しくなると着るものに困るよね

観劇の記録

  • タイトル:リーディングドラマ「シスター」
  • 日時:2018年9月2日 13時(木村花代・荒牧慶彦)
  • 場所:博品館劇場

脚本(初演版?)も↓のサイトで全部公開されてるけど、最初は何も見ないでおいたほうがいいかな~と思った!

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よしなしごと

朗読劇というものを初めて見た。以前にも興味を持った題材は結構あったんだけど、せっかくなら初めて見る朗読劇は推しさんの出るものがいいなぁ、と思ったのでずっと我慢してた。見れてよかったぁ…。

座席位置

前方の上手。ほどよい距離感で2人をずっと見れる場所だった。

雑感

ものすごく贅沢な時間を過ごした…。とってもよかった…朗読劇は素晴らしい。

まず始まってから終わるまでずーーーーーっと推しさんを見つめられるのがすごい。舞台だと、主役であっても舞台上にいない時間というのが絶対にある。でも朗読劇はずっとそこにいる。ずっと座っている。もうそれだけで、十分すぎるくらいに贅沢な時間だった。

座って話している人を1時間以上見つめる、ってなかなかできない経験だ。しかも相手はこちらを見ているわけではなく、たいてい台本に目を落としている。たまに水差しを見ている。身じろぎや、台本に沿って上下する瞳や、呼吸と共に動く肩の線がとんでもなく生々しい。そこに座っているのは確かにひとつの肉体なんだ、という、うざったいくらいの匂いが届く。同じ人間のはずなのに、どこか非現実な存在に見えるのが不思議だったなぁ…。1回だけ、木村さんと荒牧さんが水を飲むタイミングが揃ったときがあって、その時の浮き上がる影がものすごく神々しかった。誰もいない美術館で、名画と向き合ってるときの厳かさというか…。そんな経験したことないけど…。余計なものが何もなかったからこそ、所作のひとつひとつが丁寧に届いたように思う。

演者が舞台にいるのに、参考になる情報は声だけ、というバランスがまた想像力をかきたてる。完全に声だけというわけではなく、表情だったり、ちょっとした仕草で補うところもある。でも基本的には言葉だけを頼りに、自分の中で世界を作っていくしかない。これが思った以上に奥深い。今回はフォロワさんと連番だったんだけど、終わってから「弟」の年齢について話してみたら結構な差があった(私は30後半~40頭で、相手は20後半~30くらい)。しかも、話を聞いているうちに互いに修正が入ってた(最初私は50代くらいだと思ってた)のも笑った。目から入る情報がほとんどないから起きるおもしろさだよね。あと、私はずっとシーンごとにある程度の日が経ってると思ったのに、最後になって全部一つの時間にまとまると知ったときの衝撃…! あの切れ目は何だったんだろう? 時々するあの不快な音は何を示していたんだろう? 何も示されないから余計に気になる。

何もないからこそ、いろんな可能性が後ろに見えてきて、ただ聞いているだけなのにたくさんのものを見た。ギンズバーグの詩集と聞けばウエアハウスの暗誦を思い出し、健康ドックを受けた、という一言で身の回りの出来事*1を連想する。物語にどっぷり浸かっているのに、どこかで現実に起きたあれこれを思い出す余裕があった。不思議な時間だったなぁ…。

シンプルに済ませようとしても後から後からいろんな言葉が出てくる。

今はちょっと聞き取れなかった言葉を補うためにも脚本を読みながら書いてるんだけれど、若干言葉遣いが違っても、木村さんと荒牧さんの声で聞こえてくるのが好き。初めて読むテキストに、2人の声が染み込んでいるみたいだ。とってもいいものを受け取れた気がしてとても気分がいい。自分の想像じゃなくて、実際に2人が読んだ声のままにテキストを読める。素晴らしい経験だ…。

改めて、荒牧さんの声が好きだなぁと思う。キャラに合わせて作った声でもなく、かといってニコ生なんかで聞ける声でもない。ラジオで聞く声ともちょっと違う。けれど彼本人に一番近いように響く声が好きだ。声だけで、拗ねたり、甘えたり、笑ったり、落ち込んだり、悩んだり、いろんな表情を見せてくれる。人が人のことを忘れるとき、一番最初に忘れるのは声だと言う。この声を忘れてしまうのかと思うと、人間の記憶力がとても惜しい。

今回一番刺さったのが、「姉」が「弟」に現実を思い出させようとするシーンの「そうだ」だった。脚本では女性同士の組み合わせっぽい?ので、それを元に再現するとこんな感じになる。

姉「あんたは恐れた」

弟「そうだ......」

姉「あんたは逃げた」

弟「そうだ......」

姉「部屋に鍵をかけた」

弟「そうだ......」

姉「遺言ではなく、遺書を書いて、ギンズバーグの詩集に挟み込んだ」

弟「そうだ......」

姉「全身を硬直させた」

弟「そうだ......」

姉「胃は収縮し、額は熱を帯び、目は一点を凝視した」

弟「そうだ......」

姉「呼吸は思うに任せず、心拍数は極限まで上がった」

弟「そうだ......」

姉「そして、睡眠薬を貪るように飲み込んだ」

弟「そうだ! 眠りたかった......もう二度と起きてこなくてもいいくらい深く......時間を止めてしまいたかった......そうすれば、俺の人生は幸せの絶頂で終わるだろ!」

ここの「そうだ……」の繰り返しでじりじりと苦しくなり、最後の「そうだ!」で千切れる瞬間がとても好きだ。これまで、嬉しそうなときも、悩んでいるときも、わりと落ち着いて(ぼそぼそとも言う)話していたのが、ここで突然鋭くなる。この言葉は、誰かからのパクリでもコピーでも借り物でもない、彼自身の中から生まれた言葉だ。それだけで、どうしてこんなにも鋭く飛んでくるようになるんだろう。どうして、本心から出た言葉はこんなに強く響くんだろう。そのちょっと前から双眼鏡を使ってたんだけれど、「そうだ!」の瞬間に思わず腕を下ろした。レンズ越しではなく、直接その言葉を見たかったからだ。心を鷲掴みにされるというか…なんて言えばいいのかな…。うまくいえないんだけれど、あの瞬間に、なにか全然違うものを受け取った気がする。息を吸う時にヒュウと鳴った喉を覚えている。今も、脚本でこの部分を読めば、脚本では「そおおおよ!」だけど、あの瞬間の強さをもう一度味わえる。宝物みたいな一瞬だった。

そういえば、「姉」が死んでからも恐れるものって何なんだろう。最後の言葉を聞いた直後は「二度と目が覚めないこと」かなと思ったけれど、時間が経つにつれて「二度とあんた(弟)と話せないこと」かもしれないとも思うようになった。どっちもあるのかもしれない。知りたいような、知りたくないような。

75分間、ずっと姉弟の視線が交わらなかったのも覚えている。「心はどこにある?」と話しながら、胸を抑えたり、頭を指したりしても、相手はそれを見ない。でもどこを指したかはわかっている体で話が進む。「弟」にとって「姉」はそういうふうに見えてたのかもしれない。「姉」がいる場所ではなくて、「姉」がいてほしい場所をずっと見ているというか…。「姉」もそれを受け入れて、交わらないまま過ごしていたのかもしれない、と思った。「弟」が目を覚ました後は、ちゃんと向き合って話せていたらいいなぁ。

朗読劇って、短期間にいろんな人の声で聞けるのもいいところだよね。別のペアだったらどう響いたんだろう。聞いてみたかったけれど、でも、初めて受け取った、この、2人の声が染みたテキストを大事にしたいようにも思う。もう少しして、声が褪せてきたら、また聞いてみようかなぁ。

*1:ちょうど昨日、知人とそういう話をした