行く末トーキー

はじめからはじめよ

生を想う ― 炎の蜃気楼 環結

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観劇の記録

  • タイトル:舞台「炎の蜃気楼昭和編 散華行ブルース」
  • 日時:2018年8月19日 15時 (千秋楽)
  • 場所:全労済ホール/スペース・ゼロ

座席位置

真ん中、ほんのちょっと下手寄り。カテコで直江の立ち位置がほぼ真ん前に来てた。

一度見る時に席が選べるとしたらここを選ぶだろうな、というところが巡って来た。

舞台の話

全員が最後まで生き抜いた、凄まじい作品だった。紅蓮坂のときも思ったけれど、千秋楽が映像に残るわけではないから、いつかは忘れてしまうんだよね…それがどうしようもなく惜しい。覚えていたいのに、もうすでに過去のものとして崩れていくことが惜しい。

舞台で表される感情というのは、舞台の中で完結していて、こちらが受け取るのはその余波みたいなものだと思っていた。それでも十分すぎるくらいだったけれど、今回、何も介さず、全く減衰せずに深く突き刺さるところがあった。

「美奈子に残したあなたの愛をすべて、掻き出してやりたかった」の後の叫び声だ。何がどう違ったのかわからない。それでも、あの叫びを聞いた瞬間、これは「こちら」に向かった声だと直感した。未だに頭の中にぐらぐらと響いている気がして恐ろしくなる。板の上と観客席とでは、どれだけ近くても、どこまでも混ざり合わないと思っていた。それが私を守る壁でもあった。なのに、あの声はたった数瞬のうちにその壁を突き破ってきた。あの瞬間ほど恐ろしいものはない。いわば「無関係の他者」としてその場にいただけなのに、力尽くで引きずり込まれた。

そのまま、全員の感情を直接流し込まれた。恐ろしい時間だった。叩き出すことも逃げることもできずただ受け取ることしかできない。恐怖というよりもはや畏怖だった。

その中心にいた人のことを、うまく言葉で表すことができない。

彼にとって「上杉景虎として在る」ということはどういうことなんだろう。どういうことだったんだろう。そこにいたのは「富田翔」という人間ではなく、加瀬賢三であり、上杉景虎だった。濁った呻き声や、消えていく言葉は、どうしたら生まれるものなんだろう。あの瞬間、彼は何を想っていたんだろう。見つめれば見つめるほど、彼の輪郭が溶けていくようで、本当はこの場にいない人なんじゃないかと怖くなった。それでも、どうしても視線が惹かれてしまう。最後の調伏、これまでの全部を折り重ねた声を聞いて、ああ、この人は死んでしまうと本気で思った。人が死ぬ瞬間というのをこれから目の当たりにするのだと思ってしまった。実際はそうではないけれど、あの場で「昭和編の上杉景虎」は一度死ぬから、自分が感じたことはある意味では間違っていないはずだ。人が死ぬということを初めて目撃したような気分になった。

全員が、自分なりに幸せになるための選択をし続けていた。それが確かに「生きる」ということだったのかもしれない。全員が、あの世界を生きて、そして死んでいった。板の上にあったのは一つの世界だった。

全部終わって、あの曲に合わせて「夜啼鳥ブルース」の字幕が出た瞬間のことだ。自分の中で何かがぷつっと切れた。「堰が切れたように泣く」という言葉を、身をもって思い知るとは考えもしなかった。もとから表情や情動に乏しく(意識してないとすぐ無表情になって怖がられる)、舞台で涙を流すことも稀で、流したといっても静かに、ほんの僅かな間だけだった。それがあの時、自分でもよくわからない波に飲み込まれて、息するのもままならないくらいに泣いた。手足の指先から血の気が引いて、びりびりとしびれる中、必死にこらえて腕を持ち上げた。あの時に、私の中でミラステが環結したんだと思う。すべてがあるべき場所に収まった美しさの前に、ただ涙を流すしかできなかった。

直江の話

紅蓮坂の記事を読み返してて、私は「直江が好き」とちゃんと書いてたんだな~と懐かしくなった。ミラステと同じペースで原作を読み進めていたから、紅蓮坂時点では、直江が好きで好きでたまらなかった。その後何が起きるかなんて考えもしなかった。

涅槃月と散華行を読んでから、「直江が好き」と言えなくなった。直江がしたことがどうしても受け入れられなかった。それでも、夜啼鳥から散華行を通して読めば、どうしても直江から目が離せなかった。「ああするしかなかった」と頭ではわかっていても、到底受け入れられない、許せない、直江が恐ろしい、好きだと思った過去を取り消したい。そのせいで、これまでの記事は、直江について書けなかった。どうしても書けなかった。直江について語る言葉が何も出てこなかった。

環結した今、全力であの世界を生き抜いた直江を見て、自分の感情と素直に向き合ってみた。

私はどうしようもなく直江が好きなままだった。受け入れられなくても、許せなくても、私は直江が好きだった。拒絶したい思いも全部ひっくるめて、直江信綱という在り方を愛さずにはいられなかった。

直江が生きた道をただひたすらに見つめ続けても、どうしても直江を嫌いになれなかった。許すこともできないけれど、私は直江が好きなままだった。「好き」という感情の強さに、改めてぶちのめされるばかりだ。

こうしてまた「好き」と書けるようになったのは、平牧さんが、全力で直江に向き合ったおかげだ。文字では想像しきれずにいた部分を、ここまで生々しく生き抜いてくれたから、私はまた直江を愛することができた。私にとっての「直江信綱」は「平牧仁」でなければならなかった。私が好きな直江信綱は、平牧仁の声でしゃべる直江信綱だ。平牧仁の声で笑う直江信綱だ。

やっと書けた。

ここまで、本当に長かったなぁ。

カーテンコールの話

「この作品は、僕の代表作です」

この作品は、麻朝さんの最後の作品でもあった。あの場にいた全員がそれを知っていて、でも直接言葉にすることはなかった。だからこそ、この一言の後に湧いた拍手は、いろんな思いがごちゃまぜになった、とてつもなく重たいものだった。私はまだ、舞台の上で見た人が引退する、ということに慣れていない。経験がないわけではないけれど、みんな、いつの間にかいなくなっていた。「最後」と言われて、「これが最後」と知った状態で見るのは初めてだった。なんか、すごく…すごく、重たくも暖かかったなぁ。

全員がミラステを、ミラージュを愛し続けて、この日が完成したんだということはわかる。けれど私にはまだ知らない部分がある。昭和編と舞台以外はまだ触れていないし、正直本編を読んだところでピンと来るか(時代背景とか)不安に思うところもある*1。なんせ自分が生まれる前からある作品だからね…。だから、あの場にいた人たちの中では、感じ取れたことはごく僅かかもしれない。それでも、私なりに向き合ってきて、環結を迎えられたことは、私の中でものすごく大きな価値がある。そして私は「まだ」巡ることができるという、いわば初生人の強みみたいなものが残っている。先生が言う通り、何度でも繰り返して、何度でも彼らに会いに行こうと思う*2

最後、翔さんが満足そうな顔で出てきて、「最後に二言だけ」って言ったときはてっきり「さっさと帰れ」だと思った。突然「愛してる」って言われたから腰が抜けるかと思った…。立つこともままならないのにそういうのやめてください大好きです!!!!!! そして「帰れぇ!!!!!」も聞けて、本当に結ばれたんだなぁ、とロビーに出たところで冒頭の写真です。びっくりした…。

「生きているうちに、幸せになれ」

私はこの言葉を確かめるために、新しい彼らに会いに行く。引きずるだけ引きずって、そしたらまた前を向いて、いろんなことに立ち向かっていくつもりだ。幸せになるには、生きていなければならないのだ。

*1:ときめきテレフォンってなんぞや

*2:6月からこちら、ずっと何かの円環に閉じ込められてる気がするのはもう受け入れることにした