行く末トーキー

はじめからはじめよ

絆 ― 舞台「炎の蜃気楼昭和編 散華行ブルース」

人間、誰しも本気を出さなければならない時ってあるよね

観劇の記録

  • タイトル:舞台「炎の蜃気楼昭和編 散華行ブルース」
  • 日時:2018年8月13日 19時
  • 場所:全労済ホール/スペース・ゼロ

発生した事象

当日券でーーーーーーーす!!!!!!

またやってしまった。これだけはやるまいと心に誓っていたのに、気がついたらスペゼロにいた。うん...。またなんだ。

なんというか、翔さんの「待ってる。」という言葉に滅法弱いんですよ。

行こうかな~どうしようかな~って迷ってるときにこれを言われると、もう無条件に「はい!!!!!!!行きます!!!!!!!」ってなってしまう。後のこととかどうでもいい!!!!翔さんが待ってるのに行かないわけがない!!!!!っていろいろな良心とかが吹っ飛んでしまう。魔力としか思えない。推しさんの言葉でもこんな脳直行動したことないのに......2回目だよこれ......。ちょっと耐性つけたい...けどまたどこかでやらかすんだろうなぁ。

もう1つ理由はあるけれど、それは記事の最後で。

座席位置

センターちょっと下手寄り。まだチケットあるんだけれど、前後とか端とかに寄りがちで真ん中が少なかったのでちょうどよかったです(自己正当化)。また適当な服装で関係者席にまぎれてしまった。

雑感

もがけばもがくほどに絡まっていくさまを見て、悲しいってこういう気持ちのことをいうのかなぁと考えていた。

紅蓮坂(原作では悲願橋)の中で、直江は美奈子に警告する。

いま彼が戦っている相手は、人と人との繋がりを、ことごとく断つことで追い詰めていく、卑劣な者たちです

そういう手段を取る信長でさえ、マリーへの思いは断ち切れない。そういえば、舞台では全部カットされたけれど、人との縁・罪との縁を掘り下げた話があった。

「トウジロウ、おまえは誰かと縁を結ぶのが怖いんだ。だから断つ。解放されたい者の気持ちに容易につけこんで、断つ。おまえ自身がそういう願いを持って死んでいったからだ」

「なんだと」

「縁もしがらみも断ってまわって一時楽になったろうが、同時に罪との縁を結んだ。おまえは逃げる。断って断って逃げ続ける。逃げて逃げて罪との縁を重ねる。それでいいのか!」

「だまれ、景虎

「ああ、それでいいんだろう。逃げ回ってればいいんだろう。だが逃げられない。おまえは清太郎から逃げられない。死に際におまえの名も呼ばなかった清太郎からはなあ!」

(無頼星ブルース P233)

人が生きる限り、他者との縁から逃れることはできない。逃れようとすればするほど、かえって強く絡みついてくる。意識的でも無意識的でも、一度生まれた縁というのは、どう足掻こうと断ち切れないものなのかもしれない。こういう、自分ではどうしようもない縁を「絆」と呼ぶんだろうなぁ。

この作品もたくさんの縁の果てにある。まず初めに原作が生まれ、昭和編が書かれて、舞台化されて、夜啼鳥、瑠璃燕、ブギウギ、紅蓮坂と来て、散華行に至る縁。いろんな人がこの縁をつないでいって、その一端が私にも繋がっている。景虎たちが生きてきた400年とは比べものにならないけれど、こんなにも重たい縁というものは、なかなか見ることもないので、大事にしたいと改めて思った。

翔さんの浴衣がはだけまくってた話とか、カテコではける前の調伏、まあささんの熱い想いが先走りすぎちゃった(本人談)話とかしたいんだけど、どうもこの文脈に乗せるには違和感が強すぎる。翔さんのおみ足がとても綺麗だったことは報告しておきます。あとやっぱりスタッフロールが好きすぎる。ちゃんと「マサ」がいるところとか、1作しか出てないキャラも名前が出てるところが好き。

いつかつながる縁

ということでもう1つの理由です。

これです*1

そもそも、私がこの作品を知るきっかけになったのは、推しさんが出ていたからだ。出演作を劇場で見ることはなかったけれど、おそらく、過去の映像と、インタビューでの「直江が嫌いだった」発言がなければ、推しさんをここまで好きになることもなかったし、こうしてこの作品を見ようとも思わなかっただろう。そういう意味でも、ミラステというのは自分のなかで特別な位置にある。

そんな作品が環結する瞬間を、一緒に見届けられた、ということが、心が沸き立つように嬉しい。 劇場では見かけなかったけれど、あの瞬間を共有できた、という事実が確認できたとき、自分の中でミラステが1つまた終わったんだな~、と実感するなどした。まだチケットあるけどね。

ここまできたら、走り抜けるしかない。腹くくってまたスペゼロに行ってきます。

*1:本人のTwitterから、来るなら今日だろうと賭けたので気がついたらスペゼロにいた