行く末トーキー

はじめからはじめよ

あなただけを見つめ咲くー「さよならソルシエ」再演

半年越しにこの作品と向き合ってみようと思う。この記事が公開される頃には配信も終了する幻の作品だ。初演DVDはあるけれど、再演はもうどこにもない。どこにもないのは存在しなかったことと一緒なんだろうか。私がそこにいたということ、この作品と縁があったということを残しておきたい。

観劇直後の感想はこの2つ。

goodbye-talkie.hatenadiary.jp

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今見たらどっちも同じ日に書いてる…輝馬さんに興味があって、一般販売でまだチケットが残ってたのを何の気なしに買って見に行ったのが19日。見たあとにもう一度、となって譲渡を探したのが20日の千秋楽だった。はじめての1010だったなぁ。ちょうど直近の現場が1010(あんステ)だから不思議なめぐり合わせを感じる。初めてスタオベしたのもこの作品だ。そういえばまだ今の職場では働いてない頃…うーん半年って短いようで長いんだなぁ。

思い出すことをつらつらと書いてみたけれど、なかなか筆が進まない。半年経てばさすがに書けるかなぁ…と思っていたのに、この作品との縁はとてつもなく重たいものだと今更ながら実感する。いい作品だったかは見た人の主観によるし、私もこの作品が良かったとは手放しには言えない。ただ、ものすごく…なんだろう、抉られるというか、暴かれるというか、そんな作品だった。だった、て言うのが惜しいなぁ。なんで円盤出ないんだろう。

この作品について、率直な感想を述べるとするなら、才能が宿命を決めるだなんてそんな…そんな、うーん、なんだろう、そんな悲しい、寂しい話があってたまるか、というところに尽きる。人は己の信じるところに従って生きる自由を持っているはずだ。それがどうして、神から与えられた贈り物によって道を縛られなければならないんだろう。宿命ってそういうものなのかな。進みたいと思う道を選べない現実と、望んで選んでいたはずの道は自分の望んでいたものではなかった現実がそこにあった。才能という言葉がゴッホ兄弟を呪っているようにしか見えない。ただ、絵が好きなだけじゃだめだったのかな。世の人を救う他に道があったんじゃないかな。見るたびにそう思ってしまう。望むと望まざるとに関わらずなすべきことがある、というのが宿命なのだとしたら、こんなに悲しい話はないなぁ、と目を背けてしまう。ただ、そんなにまでして成し遂げるべきことがあるのは、一方でとても羨ましくも思う。フィンセントの結論は「自分が受け取った贈り物はテオドルスだ」というものだけれど、テオはフィンセントの絵を世に出すために自分を消してしまう。フィンセントの答えであり、最大の贈り物を消してでも成し遂げたかったことって、なんだったんだろう。フィンセントの絵を一番好いていたのは間違いなくテオで、けれど、最も彼の絵を嫌ったのも、間違いなくテオだ。テオはフィンに成り代わりたかったのか、フィンの絵で誰を救いたかったのか、まだ答えは出ない。

うーんうまくまとまらない…。

才能という言葉は、天才という言葉はあまり好きではない。というか、正直大っ嫌いだ。その奥にある「その人本人」を覆い隠してしまうから、出来る限り使いたくない。フィンセントが何を思っていたのか、何が本当だったのか、それを考え続けるためには「才能」や「天才」という言葉に頼ってはならない。そんな浅いところで考えを止めていてはならないし、止めることもできない。だって「あいつは才能がある」と言ってしまえば、自分とその人の差はもうどうしようもなく埋められないことを認めるようなものだ。そんな寂しい話があってたまるか。たとえ埋められない差があったとしても、それを埋めようとあがくことを諦めたくはない。わかろうとすること、差を埋めようとすることは絶対に無駄じゃない。だって寂しいままでいたくない。そう思うと、テオとフィンセントは、互いを向いているようですれ違っていたのかもしれない…と思ってしまう。そこがまた悲しい。最も親しいところにいたからこそ、最もわかり合うことができなかったのかもしれない。なんか悲しいなぁ。才能という言葉によって呪われてしまったようだ。作品には「ひまわり」が出てくるのだけれど、この作品を見るたび、とても広いひまわり畑で、2輪のひまわりが互いだけを見つめて咲いているような、そんな寂しさが残ってしまう。他に世界があることはわかっていたはずで、ほんの少しのきっかけがあれば別の道があったかもしれないのに、兄弟は互いだけの世界に閉じてしまっている。

でも、だからこそ、ベルナールの「今度ばかりはお前に負けない」という言葉がすごく響く。ベルナールはフィンセントに影響を受けたかもしれない。フィンセントの持つ「才能」に打ちひしがれる日があったかもしれない。けれど、フィンセントを特別視はしなかった。フィンセントに出会ってから3年後、フィンセントにではなく、ロートレックに向かって、かつての自分の技法を捨ててまで描いた絵を見せる。この行動に、「才能」という呪いを越えた希望を感じる。越えられない差があったとしても、それをわかろうとすることは絶対にできるはずなんだ。その場にフィンセントはいないけれど、確かに彼は画家たちの仲間だったんだ、という証拠が詰まっているように思えた。こんなにうれしいことはないなぁ…。才能は呪いだけじゃなくて、人との縁を結ぶきっかけにもなるんだ。どういう意図であのシーンが入ったかはわからないけれど、私はあのシーンに希望を見出した。ただ、悲しい、寂しいだけじゃなくて、その先にある希望を感じるから、こんなにも心に残る作品になったのかな。そうだったらいいな。だって、寂しいのは嫌だから。

物語の構造にもいろいろ書きたいことがあるんだけれどもう疲れてしまってだめだぁ…。

改めて、この作品に縁があってよかったなぁ、と心の底から思う。原作があってのミュージカルだけれど、これは原作という幹から育った立派な大枝だ。原作が伝えようとすることを解釈し、ミュージカルという制約を受け入れ、楽器はピアノのみというさらなる制約を加え、そうしてできあがった作品だ。いつまで覚えていられるかわからないけれど、この記事を頼りに思い出すための縁がつながればいいなぁ。

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