行く末トーキー

はじめからはじめよ

0.5の妥協、あるいは

2019年3月5日、なんと「行く末トーキー」開設から2周年を迎えました~~~! めでたい! パチパチパチパチ

なんかの節目で毎回言ってるんだけど、ここまで続けられたことに自分が一番びっくりしています。読んでいただいている方のおかげです。いつもお読みいただき+スターをつけていただきありがとうございます! 今後ともよろしくおねがいします。

節目といえば節目なので、最近考えてることをちょこっとだけ書いておきます。なんか最近は記録記事ばかりだな~という反省も込めて。

2.5次元って、どういうことなんだろう?

年明けに映画刀剣乱舞が公開されてから、改めて考える時間が増えたように思う。今でこそ2.5次元と呼ばれる舞台作品をよく見る(推しさんの出演作を追っていると必然的にそうなりがち)んだけど、もともとはいわゆる「原作厨」だったし、今でもそうだ。原作以外のメディア展開は基本的に受け入れられないし、中でも一番無理なのが実写化だ。

でも、今よく考えてみると、なぜ実写化をここまで毛嫌いするようになったのか、これといった明確な出来事があったわけじゃない...んだよね。個別の作品を取り上げて「これが嫌!」っていうことはできる。でも「実写化」という言葉を聞いただけで感じるあの悪寒は一体いつから生まれたんだろう? 小さな「これが嫌」の積み重ねだったのか、それとも嫌すぎて記憶からも圧殺されているのか......。ただ周りの「実写化とかダセェよな」というなんとなくの風潮に流されてしまったのか......。幼い頃はハ○ポタの原作も映画も好きだったのに。ちなみに私の記憶にある初めての読書体験は親が読んでいたハリ○タ(1作目)*1で、自分で「見たい」って言った初めての映画もハリポ○だった。いつからこうなったんだろう?

まぁ自分語りはこのへんにしておいて。

今でも「実写化」と聞くとウッとなるけれど、「舞台化」という言葉にはそこまで抵抗を覚えなくなった。同じ原作でも「実写化されます!」と「舞台化されます!」なら後者を受け入れ、前者を嫌悪するような気がする。じゃあこの「差」ってどこで生まれるんだろう? どっちも「生身の役者がキャラクターを演じる」という点は一緒だ。でもなぜここまで反応が両極端に振れるんだろう?

てことを2ヶ月位うっすらと考え続けている。答えはまだ見えてこない。

でもなんか1つ言えそうなのは、舞台の場合は、そもそも無理な話であるということが制作陣・キャスト・観客全員の暗黙の了解として共有されてるからかもしれないなぁ、ということだ。これは決してマイナスなことじゃない。漫画やアニメだからこそ可能な演出というものはたくさんある。それらを舞台というメディアで完璧に表現することは、到底不可能な話だ、っていうのをみんなが知っているというだけの話だ。こうして文字にしてみると当たり前すぎるんだけれど、この前提を関わる人みんなが共有できているか、が大きい気がする。

これが映画やドラマなら、CGという強い武器を使える。もちろん予算とかそういう事情が絡むことは知っているけれど、舞台よりは格段に表現の幅が広がることは確かだ。カメラアングルや背景だって近づけられるし、納得のいくカットが生まれるまでリテイクを重ねられる。どれも舞台ではできないことばかりだ。カメラアングルは座った席で固定されるし(双眼鏡とかを使えばズームはかけられるけれど、角度は変えられない)、背景もいいとこプロジェクションマッピング*2。そして幕が上がってから降りるまで、止まることは基本的にありえない。

映像に比べればできないことばかり、でも、だからこそ、そこに「実写化」にはない何かが生まれるんだと思う。有り体に言うならば、制作陣と観客がどちらも「妥協」する余地があったから、私は2.5というフィールドに居続けられるのかもしれない。どだい無理な話とわかっていながらも、できる限り近付こうという努力というか...。2次元でも3次元でもなく、お互いがその間に歩み寄ろうとしているから、2.5は面白いのかもしれないね。

もちろんいろんな考え方があるのはわかっている。あくまでも今の私は2.5を、観客と制作陣の妥協の果て、あるいは止揚、あるいは前向きな開き直り、あるいは幸せな共犯関係だと捉えている、ってことを残しておきたくなった。

そう考えると、映画刀剣乱舞を楽しめた理由もわかる気がするんだよね。原作厨として見ると、あの映画はものすごく思い切った省略をしまくっている。キャラごとの掘り下げが最低限にしか行われないし、ゲーム中の台詞もほぼ出てこない。そしてオリジナルな描写がたくさん出てくる。多分映画で初めて「生身の人間が演じる刀剣乱舞」に触れたとしたら、いくらストーリーや殺陣がよくてもここまで好きになれなかったと思う。舞台と同じ役を演じているキャストが多かったから、映画で省略されていても「きっと彼らはそこまで踏まえているはずだ」と信じられた。そこを信じられたからこそ、描かれなかったあれこれについても「映画作品としての質を上げるために必要だった」と受け入れられたんだと思う。舞台上での約束事を映画の中にも持ち込めた、というか。

じゃあ他の実写化作品も同じように受け入れられるか、と言われると、今はまだできないと思う。作品を見るたびに、描かれなかった部分や変わってしまった部分を数え上げて「だから実写化は嫌なんだ」と言ってしまうだろう。でもいつか、実写化作品にも歩み寄れたらいいなぁと願っている。世の中に面白いものがたくさんあった方が楽しいし。

といっても、これは今の私が考えたことだ。明日の私は全然違うことを考えてるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも「今」感じていることは確かだから、こうして文章にしておいた。いつか読み返して何を思うんだろうね。

おわり!

*1:どの台詞かも覚えてる

*2:もちろん金に物を言わせればよりリアルになることは知ってるけれど、それができる作品のほうが少ないだろう