行く末トーキー

はじめからはじめよ

「最悪」― イノサン musicale

サンソン家が掲げるは正義の剣。罪を罰し、人々に秩序をもたらすものである。

鑑賞の記録

  • タイトル:イノサン musicale
  • 日時:2019年12月10日 18時半
  • 場所:ヒューリックホール

※ 日付変わっちゃったけど「今日」とあったら10日なんだなって思ってください

千秋楽にしてやっと下手側の女性用お手洗いに入ってみたんだが、そこには落書きなかったです。男性用(女性も可)お手洗いにはシャルルの横顔、上手側女性用お手洗いにはマリー・アントワネットの髪飾り風落書き。お手洗いの入り口にはそれぞれ原作の1ページが貼ってあるのも結構好きだったな。

座席位置

前方。肉眼で見ると衣装の布がすごい。1シーンしか出ない衣装も多いのに、どれもものすごく凝った作りをしている……強い……チケ代が布になってる……。布だけじゃなくて花飾りとかアクセサリーもきらびやかで、あ~~~~~なるほど原作が立体化するとこうなるのか~~~~~って感動した。あれ1作品限りなんてもったいないな。なんかで展示とかしてくれないかな。

雑感

とりあえず日替わり?回替わり?の記録を。

  • フェルゼンのシーン
    • 「フェルゼンオペラグラス……マリー……マリー……ビバ乳首ちゃん!」
    • 「マリー、これが言えたらストックホルムに行けるよ! ……赤乳首青乳首黃乳首(×3) よっしゃ!」
  • ジャック
    • 「いつでも歓迎するぜ」の後は「あばよ!」
    • オリビエ奪還後は「革命だ―!」
  • 最後の学校シーン
    • 荒牧さんが所望するお菓子は「酢昆布」(ここ回替わりらしいって昨日初めて知った)
  • 幕間の小芝居
    • 開始のファンファーレが「讃えよ 尊き 一族の血(戴冠式の歌)」になってる(確か8日から?)
    • MステにBGMが付く
    • サングラスを装備するレポーター
    • 登場をやり直すレポーター

鍵本さん(ハンス・アクセル・ホットパンツ・フェルゼン)本当に何があった?! 幕間は千秋楽ということもあってギッチギチでした。今日も有楽町は大変な人ですこと。

それからプチトリアノンでマリーとダンスするちょっと動きが激しい貴族(佐々木さん)、ハケ際に頭をぶつけるのは8日もやってたからわざとなのかな。今日は結構いい音してました。ゴンって。

まぁそれはさておき。

終わりましたね。パリ公演あるけどまぁ一段落ということで、溜め込んでいたあれこれを一気に書いていこうと思います。これまでの記事から分かる通り、この作品には言いたいことがまぁそれなりに積み上がっているので、「この作品面白かった」という記憶をお持ちの方はそのまま楽しんでください。貴方が楽しめたことと、私が不満を持っていることは一切関係ありません。

この作品を2.5次元として取るから、もろもろのおかしな点が目についてマイナスになるんじゃないか、ということに気づきました。私の中で2.5次元といえば、原作にできる限り忠実であることが最も重要視されるイメージがある。もちろんエピソードの取捨選択や見た目の調整などは必須なんだけども、原作に近ければ近いほど評価も高くなる。「私の好きな○○(キャラ)がそこにいた」という実感を求めたくなる。

その視点から考えると、この作品はド底辺もド底辺、という評価になる。学校のシーンは原作にもあるにはあるけれど使われ方は全く違うし、ド・リュクセはちゃんと死なないし(ド・リュクセノルマ達成)。ド・リュクセが勝手に死んだ(勝手ではない)ことで主人公格であるマリーの性格もちょっと歪んでしまっている。というかド・リュクセにまつわるシーンが大幅に変わっているから、原作と舞台の両方で彼に関わった人たちの言動が歪んでいる。

いやド・リュクセの話はもういい。さすがに自分でも言いすぎて飽きた。ド・リュクセが好きすぎる芸人みたいになってるけど私の一押しはアランでありマリーである。原作(無印)があのシーンで終わらなかったら、私は多分Rougeまでついていけなかった。

ともかく、原作にないシーンを盛り込み、原作でそこそこの尺を使って描かれたエピソードがばっさり改変されている(そしてその事により中心となるキャラクターの性格が歪んで見える)という2点において、この作品は「イノサン2.5次元化したもの」と捉えるならほとんど評価できない。

別の観点として、たとえばシェークスピアの戯曲を元にしたあれこれのように*1、「イノサン」という漫画を原案とした舞台だとしたら、この作品はどう評価できるだろう。そこが気になっている。2.5とは何か、ある作品に基づいた舞台を構成する時、脚本家と演出家の意見(意図)はどのくらい入り込めるのか。

7日にブチギレて以来そんなことをつらつらと考えていた。で、今日結論が出た。2.5(原作に忠実であるべき)という基準を取っ払ってみても、私にはどうしてもこの作品が「いいものだった」とは言えない。話は飛び飛びだし、語り部(女乞食)に頼りすぎている部分はあるし、作中の登場人物たちの行動と直接は結びつかない(ように感じる)説教で終わる。

何か伝えたいメッセージがあることは全然悪いことではない。大抵の作品は「これが言いたい」というテーマみたいなものがある。ただ、それを直接言葉にするなら、演説すればいいだけの話だ。作中の登場人物の言葉や行動を通して、なぜそのテーマが大事なのか、どう大事なのかを伝えることが、物語の役割なのではないか? 客席に呼びかける演出が悪いのではない。私が言いたいのは、その前までの流れをもっと作り込めば、わざわざ強い言葉を使って呼びかけなくても伝わったのではないか、ということだ。

マリーが「処刑人かつ女性」という当時のフランス社会では極めて強い差別にさらされる境遇でありながら自分の意志で抗い、生きていく姿を見れば、自分で考えて選ぶことの尊さや難しさ、自由であることの有り難みは十分に理解できる。というかお説教という形で言葉にしてしまったせいで、作品から得られるメッセージが限定されているような気がしてならない。もっとたくさんのことを感じ取れるはずなのに、どうせお説教で「自分で生きろ」っていう古臭くてたまらないメッセージを押し付けられるから別にいいや、となってしまう。

歌や芝居の上手い下手はいまだに分からない。けれどこの作品は、それ以前に「話の作り方が見る人を全く信頼していない」と感じる。13000円というそこそこの金額を払って古臭い説教を受けて帰るなんて、それこそ拷問だ。もっと想像力を働かせたかった。実際に人の首が落ちることはなくても、間近で血の匂いを感じたかった。それぞれがそれぞれの心のなかで大事に育てている「純粋さ」と、当時の社会を覆う「不自由さ」がぶつかり合う気味の悪い音が聞きたかった。私の想像力は飛び飛びの話を埋めるために使われ、登場人物の心情を掘り下げる方向へは一切働かなかった。原作を読んで受けた感動以上のものは一切感じられなかった。生身の人間が演じているにも関わらずである。

何がしたかったんだ、本当に、この舞台は。

2.5次元」として捉えるには変わった部分が大きすぎる。「原案もの」として捉えるには作りが雑すぎる。何もかもが不十分で、何もかもが不自由だ。

パンフレットにあるコスプレを見下した発言だってものすごく嫌な思いをした。私自身はコスプレをしたことはないし、する予定もないんだけれど、コスプレをする人たちが注ぐ熱量は知っている。それを「面白おかしくなってしまう」と言った感性を疑う。確かにプロから見たらお遊びかもしれない。質は悪いかもしれない。けれど真剣に遊んでんだよ。本気で趣味やってんだよ。お説教を受けるまでもなくずっとずっと本気で生きてんだよ。

本気でこの舞台に13000円(+手数料1000円/枚くらい)×8公演とグッズ代とDVD代とその他もろもろのお金と体力と時間をかけたんだよ。それだけの価値があると信じたんだよ。

信じたお前が馬鹿だったと言うなら甘んじて受け入れるけれど、私はこの作品をどうしても好きになれないし肯定もできない。

原作最新話を読んで、まさかここでこうなるのか!と感動して、きらきらと輝くものを受け取った。帰り道は本当に心がふわりと浮いて、あと3話という文字に落ち込みながらも、この先、彼ら彼女らは何を選び、どう生きるんだろうと期待が止まらなかった。今でも思い出すたびに心の熱が数度上がる。週刊誌(隔週だけど)1冊分のお金と10分にも満たない時間でこれだけのものを感じ取れるのに、この舞台は、2時間半ほどかけて目も当てられないほど劣化した原作をなぞったようにしか思えなかった。感性が貧弱だと罵るなら罵ればいい。どうせろくな教養も持ち合わせてはいない。フランス革命についても、演劇についても、表面的な知識以外は何も知らない。

それでも、私はイノサンという作品を2014年ころからずっと愛し続けていた。

だから、私は、大好きな原作の舞台を見て、生身の人間の温度と、血の匂いと、生きているということの汚さと素晴らしさを感じたかった。

それだけです

*1:私が見た中だとR&Jとかね