行く末トーキー

はじめからはじめよ

至 ― 舞台「刀剣乱舞」山姥切国広単独行 -日本刀史-

志津屋のカルネより美味しいものを求め、私は福岡へ旅立ったのであった。

鑑賞の記録

  • タイトル: 舞台「刀剣乱舞」山姥切国広単独行 -日本刀史-
  • 日時
    • 2023年11月11日 18時
    • 2023年11月12日 13時
    • 2023年11月12日 18時
  • 場所:キャナルシティ劇場

てことで行ってきましたよ福岡~~~~~~! 食べて見て考えて歩いて走って写真撮ってそれからまた食べて、2泊3日満喫してきました。しかし志津屋のカルネを超えるものには出会えなかった………。あれなんであんなに美味しいんだろう。じゃがりこ(九州しょうゆ味)は結構いい線いってた。

劇場について

初めてのキャナルシティ博多駅から歩いても10分ちょっとだし迷うことはなかったけど、建物の中がごちゃついてて自分が今どこにいるのか見失いがちだった。地下が地下じゃない。座れる場所は多いが急に寒くなったし風が強かったからもう寒くて寒くて。冬じゃん。あと柵も何もないところで突然水が湧くんだけどあれはもう無法じゃない? なんで? 冬だが????? 濡れたらどうするんだ??????

劇場はきれいだったなー。青年館みたいな印象。ほどよい規模感でほどよく見やすく(1階席しか入ってないので2階は不明)、お手洗いの位置と構造はよく分からないが数は多い。あと売店ある。ロビーが広くベンチも多い。結構いいとこだと思う。お手洗いは一体どうなってるのか分からない。なんかトリックアートみたいじゃなかった?

雑感

終わっちゃったね~~~~~~~…………あっという間だった。天伝ぶりにガッツリ見た。天伝が3ヶ月100公演弱とかいう化け物じみた規模だったから余計にあっという間に感じるのかもしれない。

終わっちゃったのかー。それ以外の言葉が出てこない。維伝で朧んばちゃんが出てきた時は度肝を抜かれたし、天伝で太閤が「歴史を最初から……」と聞いた時は目の前が若干暗くなったし、綺伝のあれこれも心配しかなかったんだけど、単独行を経た今は「まんばちゃんなら大丈夫だ」って信じられるようになった。これが一番うれしいかもしれない。いつ帰るのか全然わからないし、フクチャンもいなくなって本当にたった1人だし、もしかしたら歯が欠けたままかもしれないし、とんでもない苦難が待ち受けているだろうけど、それでもまんばちゃんは大丈夫。絶対帰ってくるって信じられる。どこまでも希望の物語だった。こんな暖かな気持ちになる刀ステ初めてだぁ…………。

11夜だったかな。かげんばちゃんだけのシーンを見ながら「この声はどんどん過去になっていくんだな」と感じた。恐らく稽古期間のどこかで録った台詞。公演を重ねてどんどん演技が磨かれていくまんばちゃんに対して、かげんばちゃんとデスマスクんばちゃんの声はずっと変わらない。メタもメタなんだけど、これに気付いた時に自分の中で一段解釈が深まったような気がした。

時間は止まってくれない。まんばちゃんが三日月と過ごした時間はどんどん過去のものになっていく。もう既に三日月がいなくなってからの方が長くなって久しい。この現実をきちんと受け止めて、どこかで区切りをつけないと、前には進めないんだなぁ、みたいなことを考えた。

刀であったころの彼らは「ただ静かにあるだけ」で、自ら物を考えたりはしなかった(多分)。常に受け身で、始まりも終わりもない、のっぺりとした世界に存在していた。そんな彼らが審神者によってヒトの形を得て、初めて一方向に流れる時間を経験する。戻ることのできない過去を積み重ねる。

顕現された時から後悔を内在する刀剣男士もそこそこ多い(刀ステ内で一番わかりやすいのは不動くん)中、まんばちゃん(山姥切国広)はそういったしがらみを持っていない。劣等感とか自己否定とか、それでも剥がれない誇りは彼の芯に焼き付いて薄れないけれど、それは後悔とはまた違う感情だよね。

でも、まんばちゃんは本丸で過ごして初めて「後悔」を得た。やり直したい、救いたい過去ができた。そういう側面から切り取ると、まんばちゃんは既存の刀ステ作品で出てきた歴史上の人物と同じ存在になったとも言える。戻れるなら戻りたい、変えられるなら変えてしまいたい。ヒトはどれだけ変えたい過去があっても時を遡れないけれど、まんばちゃんは戻れてしまう。その気があれば変えられてしまう。確かに刀剣男士から逸脱しかかっている。

(この衝動を真っ向から否定したり叱ったり矯正したりせず、まんばちゃんが自分で乗り越えるまでずっと待っていた主の度量すごいな……という驚きはさておき)

戻れるからこそ過去が過去になってくれない。いつまでも現在として続けられてしまう。永遠に続く現在が膿んで膨れて、実体を持ってしまったものを「影」と呼ぶのかもしれない。だから、影を断ち切り、前へ進むためには、過去は過去としてひとつの区切りをつける必要がある。三日月と過ごした日々を「歴史」つまり過去として認め、もう変えられない、守らなければならないものだと受け入れなければならない。これを理解したから、まんばちゃんは「三日月を救いたいなどとはもう思わない」と言えたんじゃないかなぁ。

過去になりきれない過去が影を生むとしたら、朧信長をはじめとした朧アベンジャーズは、信長公を過去に、つまり歴史にしたくない誰かが思いを馳せた結果生まれた存在なのかもしれない。それが誰かは分からないんだけど。刀ステシリーズに出たことがある人物だと光秀か蘭丸が考えそうなことだけど、2人とも朧になってるしな。まだ出てきていない誰かなのか、あるいは朧光秀や朧蘭丸はまた別の誰かが永遠を望んだ結果なのか。

別に同一人物が全ての朧を生み出したと裏付ける証拠はないし、むしろ複数人がそれぞれに思いを馳せた結果だって方がしっくり来る。朧たちは目的が共通しているから一時的に連帯しているだけ、とか。あるいは朧官兵衛がその時々の目的に合わせて色々試した結果がなんとなく形を持ち続けている、とか。あるいは刀ステという物語を終わらせたくない、過去にしたくない私たち観客の願いが刀剣男士の敵役としてふさわしい存在を生み出している、とか。

朧信長を救うとは、あれらに思いを馳せる誰かが「もう彼らは過去のことなんだ」と受け入れることを指す。三日月の言う「未来を繋げたい」も、自分が消失するという揺るぎない出来事を過去と認め、それでも前へ進んで欲しいという願いを意味する。この考え方なら確かに刀ステ本丸の物語が朧信長を救う可能性に繋がるような……そうでもないような……。

思いついた時はすごく腑に落ちたのに改めて書いてみるとふわふわしてて掴みどころがないな。一応11日12日と見た後にちまちまメモは残したんだけど、やっぱりその瞬間感じたこと、考えたことには敵わない。

この物語の至るところ、つまり終わりはどんなものなんだろう。小さな円環を巡り続ける三日月と、大きな円環を横切るまんばちゃんが再び交わる日は来るのだろうか。円環の説明中に出てくる映像をよくよく見ると白い線は白く小さな円で構成されているっぽくて、あの小さな円ひとつひとつが三日月の辿る円環だとしたら途方もない数だ。

どうあれ、時間は一方向にしか進まない。現在はどんどん過去に置き換わっていく。この不可逆の中で最良の場所に行きつけたらいいなぁと願ってやまない。

うだうだ書いたけど、結局のところ、も~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~本当にいい作品だった。今の私が、今このタイミングで、今の荒牧さんが演じるまんばちゃんを、単独行を見れて良かった。どれが欠けてもこの満足は得られなかったと思う。自分なりに歩んできた時間を肯定されたみたいで、見るたびに感動して、元気付けられて、明日からも頑張ろうって思えた。当たり前のことしか言えないんだけど、本当に、山姥切国広を、刀ステを、荒牧慶彦を好きになれて、自分なりに努力してきてよかったなぁと思う。これができると信頼し、そして見事に応え走りきった座組にめちゃくちゃ感謝している。素晴らしい作品をありがとうございました。

まだまだ書き足りないけどもう眠いよ~~~~~~~~。おうちのおふとんが待ってる。一旦記事を分けよう。