行く末トーキー

はじめからはじめよ

情 ― 刀ステ(シリーズ)の考察メモ

夏ですな~!

ここから9月末まで怒涛の勢いで現場が詰まってるので、書けるうちに書けるだけ書いておきます。

※ シリーズを通してひたすら思いつくままに書いていきます

始める前に

とりあえずねぇ...昨日のあらまきばが......神がかってました...。多分今入会してもタイムシフトで見られるのでぜひ見てほしいです。個人的な設定とか、衣装やメイクのこだわりをめいっぱい聞けます。あと本人による1幕ダイジェストがひどい(褒めてる)。言われてみれば確かにwwwwwwってなった。客席の反応が伝わってるっぽい?こととか、知りたいことがぎゅっと詰まった90分でした。

live.nicovideo.jp

まだ今月分は玉さんのニコ生やってないので今がお得です!!!!!!!あとトキメンみんな楽しいので!!!!!!入って!!!!!!

ここからは本当に思いつくままにぽろぽろ書いていきます。ディレイ見ながらだけど、台詞とかの聞き取りに自信はないです...。

明らかになっていないこと

三日月「やらねばならぬことがある。それに......山姥切との約束があるからな」

この「やらねばならぬこと」とは何か? というのが全く明らかになっていない。「背負わせるわけにはいかない」という言葉もあった。三日月は、何か本丸の皆に伝えていないことがあり、そのために円環を繰り返しているらしい。

「山姥切との約束」というのは、彼が円環を巡る寄す処になっている...のかなぁ。ただ巡るだけだと心が死んでいくけれど、山姥切が常に同じ目で立ち向かってくれることだけを支えに、もう一度最初から向かっていく。

顕現から円環の果てまでずっと、三日月が山姥切を育てようとしてたことは確かだ。自分を打ち壊すための刀を育てる三日月って、本当に自虐的...というか、「やらねばならぬこと」が成し遂げられたら折れてもいい、むしろ折れたい、と思っているのかもしれない。

なぜこれが描かれなかったのか、というのはちょっとよくわからない。多分大人の事情とかそういうのなんだろう。

最新作である『悲伝 結いの目の不如帰』では、三日月宗近をある大きな転機に至らせる必要がありました。だけど三日月に関しては現段階で描けない部分も多く、そうした中で「大きなストーリーとしてはなにも決着がついていないのに、どうやって三日月をその転機にまで至らせればいいんだろう」という難題との対決でした。

人生を解釈する光みたいなもの Web時代の作家たち : 特集 | monokaki

原作上の制約なのか、それとも舞台作品としてまだ描けていない部分があるからなのか、わからないけれど、決着はついていないし、描かれていないところもあるのは確かだ。

三日月宗近とは何者か?

悲伝の底にあった問いかけは、きっと「三日月宗近は何者か?」だと思う。悲伝だけでなく、虚伝から積み重ねてきたいろいろが、たった一つの問いかけに収束した...みたいな。そして、その問いかけを通して、更に「物語とは?」という普遍的な問いかけにも至る...んじゃないかな? となんとなくつかもうとしている。

「XXXとは何者か?」という問いかけは、虚伝でもしつこいくらいに繰り返されていた。それが「織田信長とは何者か?」という軸である。宗三が問いかけて、光秀や蘭丸が答えて、最後に宗三が自分なりの答えを出す、というのが、この問いを巡る一連の流れだった。

蘭丸「......あなたは言った......織田信長とは何者か? ......織田家に使える家に生まれた私にとって、あの方は私の主。だから、上様を守らなくちゃ......いや、違う......お家も役目も関係ない......私は織田信長を人として愛していた......だから、あの方を守りたかった......それなのに......悔しい......」

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光秀「......後の世の者たちは、この日の本能寺をいかに語るのか。明智光秀は、天下を欲しがったのか、それとも信長という男をただ越えたかったのか......いや違う。私はただ、あの御方に見捨てられるのが怖かった......織田信長とは何者か......私にとって、あの御方は主君であらねばならなかったのだ...…」

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宗三「……織田信長......あなたは果たして、何者だったのでしょうか...…蘭丸や光秀にとってのあなたは......不動にとって、薬研にとって、長谷部にとってのあなたは何者だったのでしょうか? ......この刻印が覚えている......僕にとってあなたは......やはり魔王でしかない......」

織田信長という1人の男を巡って、3つの視点が立ち上がる。ここまではっきり言葉にしていなくても、それぞれにとっての「織田信長」像というものがあって、その差異が理解できなくて苦しんだりする。

で、この問いをめぐる私の立場は、薬研のそれに一番近い。

薬研「織田信長という男がなんだったのか、理解したいと思っている。......尾張の大うつけ、第六天魔王、覇王、天下人、様々なふたつ名で皆が織田信長を呼んだ。どれが本当のあの人だったのか。敬われ、恐れられ、慕われ、忌み嫌われ、どれがあの男の本当の姿だったのか。簡単にはわからせちゃくれねえ......でも思うんだ。そのどれもが全部、織田信長という男を形づくっていたんじゃないかってな」

細部は微妙に異なっても、「三日月宗近とは何者か?」という問いかけは、だいたい↑の発言と同じような言葉に収まるような気がする。このたぐいの問いかけは、1つの答えに収まるのではなく、それぞれの中で「自分にとってXXXは」という答えを見つけていき、その過程で何か得るものがあるのではないか?

記憶とは?

刀剣男士とは、日本刀の付喪神が人の身を得た存在である。もとは付喪神だから、人間とは似ているようで全く異なる存在だと捉えている。だから、彼らにとっての「記憶」というのは、人間が考えているそれとはまた違った意味を持つと考えている。

刀ステ的には、付喪神(刀剣男士)は、刀に寄せられた心が具体化したようなもの、でもあるらしい。「かくあれかし」という願いを受けて存在するのが、刀剣男士だ。

彼らにとって記憶とは何なのだろう。人の身を受けて以降の「記憶」は、多分人間のそれと大差ないかもしれない。けれど、彼らは「刀」であった時間の方がはるかに長い。その部分の記憶が欠落する、というのは、人間の記憶喪失とはまた違うのではないか? …なんというか、公式に記録がないとか、そういう「なかったもの」として扱われていた期間=記憶がない期間、とも捉えられる。

燃えると記憶がなくなる、らしい...ということはわかるけれど、男士によって程度はまったく違うし、忘れてしまったことについての姿勢も違う。刀ステの物語に、この差がどう織り込まれているのかがいまだに落とし込めていない。

物語とは?

山姥切「物が語るゆえ、物語......。これは、俺の物語...そして、俺達の物語だ」

ジョ伝の最後で、山姥切が「俺の」物語と断言する。この台詞が結構好きだ。なんというか、ずっと「語られる」側にあり続けた刀が、ついに「語る」側に回ったことを端的に示しているように思えるからだ。ずっと受け身であり続けた彼らが、自らの過去と向き合い、自らが何者であるかを「おのずから」語るようになったのが、この一言にぎゅっと詰まっている気がして、聞くたびに背筋が伸びる。

ジョではそう考えるだけだったが、悲伝まで見ると、また違った意味をはらんでくる。「俺の物語」と対になるのは、三日月の顕現台詞なんじゃないか?

三日月「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」

自分が何者であるか、というのを、三日月は「自分がどう見られているか」という特徴で語る。ここには「自分」という視点が欠けている。物語についても、三日月と(ジョ以降の)山姥切では考え方が違う。

三日月「我々刀剣は人の心を運ぶ歴史のよすがなのやもしれん」

ここ(虚伝)でも、三日月は物語に対して受け身のままだ。人がものに寄せた心を、遠い未来まで運んでいく。それが「もの」としての刀のありようだ、と考えているように思う。

でも、三日月は受け身である自分をよしとしていたわけでもない...と思いたい。あまり感情が揺れない三日月が、義輝に向かって言う。

三日月「あの時俺は、使われることはなかった」

この一言に乗った重さは、きっと「使われたい」という願いの重さだった。その後何がめぐって三日月が義輝のところに渡されたかはわからない。でも三日月本人が仕掛けたことだとしたら...。...…うーんよくわからない...。

なんか、三日月自身が「物語」との向き合い方を変えることが、何か大きな変化をもたらすような予感はしているんだけれども...。それ以上はちょっと言葉にならない...。

三日月「この本丸での俺の物語も、ここまでのようだ」

やっぱりなんか、ものすごく受け身なままな気がするんだよな...。「歴史のあるがままに」という考えに、雁字搦めになっているというか。「歴史とは、すべての結果の上で存在しているのではないか」という諦観に足をとられてしまっているというか。

歴史がすべての結果の上に存在するなら、「今」この瞬間に結果を積み重ねていけば、きっといつかは、と願っている...のかもしれない。でもなんかいまひとつ、ここがしっくりこない...。

結いの目と時間軸

三日月が時間軸を繰り返しているために、三日月は時間軸を絡ませる「結いの目」となったらしい。

じゃあこの時間軸とは何か? 三日月宗近が顕現し、消滅するまでの時を繰り返しているのに、山姥切が「結いの目」で見せられた光景に本丸の景色がなかったのはなぜか? 絡み合っているからだと言われればそれまでなんだけれど、なぜ三日月だけが結いの目になったのか、いまいち納得がいかない。

刀剣男士たちは過去に出陣し、時間遡行軍と戦う。だから、彼らの過ごす時間の流れは、非常に複雑になりやすい。

悲伝の中に限定しても、永禄の変(義輝の死)は少なくとも3回繰り返されている。そしてそのうち2回は刀剣男士がその場にいた。もうその時点で時間の流れがおかしくなっている。小田原にも2回(ジョ伝。ズレを含むなら外伝も入れて3回)、本能寺の変に2回(虚伝と悲伝)、大阪冬の陣にも2回(虚伝と悲伝)出陣している。そのもつれではなく、なぜ三日月の繰り返しが結いの目の原因となったのか?

ねむくなってきた...。

全然うまくまとまらない...。

「誰が」語るのか?

いろんなことを書いてきたのだけれど、こうしてあれこれ考えることが、私にとっての「三日月宗近とは何者か?」という答えにたどり着くための過程でもある。そう考えると、物語とはやっぱり「人間」が「もの」に託す心なんじゃないか、という根本的な部分に立ち返ってくる。

三日月は、託された心を、そのまま丁寧に語り継ぐことが、ものとしてのありようだと思っているのかもしれない。そしてそれは、彼が「刀」であったなら、間違いようのないあり方だ。というかそれ以外にあり方を選べない。

でも、三日月は人の身を得た。それによって、彼は「誰かに心を託す」ことができるようになった。そして、託した心が帰って来て、それを受け取れるようにもなった。この心の受け渡しこそが、新しい物語を作っていく...んじゃないかなぁ......。書いてて何がいいたいのかわからなくなってきた。

三日月が「三日月宗近とは何者か?」というのを、自分の言葉で語れるようになるときが、円環を抜けるきっかけになる、そんな予感だけがずっと続いている。

あ~~~~やっぱりだめだ!また書きます!全然まとまらない!こんなの読ませてごめんそしてありがとう!