刀ステ(悲伝)にまつわる話。ネタバレはしてない。
6月の頭に明治座で見てから、感想記事に加えて考察を重ねている。重ねている...つもり、と言ったほうがいいかなぁ。過去作を見返したり、テレ東の特番を見たり、戯曲を眺めたり、はたまた日本史そのものを調べてみたり、いろいろなことをしてみた。
青年館まで1ヶ月以上あるし、そこまでに考えをまとめられたらなぁ、なんてのんびりと考えていたが、気がついたらもう青年館初日である。
いやぁ......自分でもびっくりするくらいに文章が書けない。考えがまとまらない。暑いせいかと思って環境を変えたり、最近読んだ本の量が少ないからかと思って読む量を増やしてみたり、刀ステ以外でも頑張ってみたがそれでも書けない。
文章を書くのが仕事みたいなものだし、昨日書いたような記事も書けるし、それ以外の文章も書ける。それなのに、刀ステの考察だけが書けない。
観劇の後に記事を書く、という習慣ができてしまっているので、いつまでも刀ステが終わらないような錯覚にとらわれる。時間が経つほどに足元が重たくなる。その結果何が起きたかというと、演劇を見る気が磨り減った。特に今月入ってからのすり減り方が顕著で、はてブロの記事を見て行きたいと思ったもの、周囲の評判から興味を持ったもの、タイトルを見てから気になっていたもの、すべて逃している。時間の余裕も、お金の余裕もあったにもかかわらず、だ。当日券があれば見るつもりで劇場の最寄りまで行ったのに、駅から出られなかったこともあった。いつまでもいつまでも、べったりと何かが貼り付いているようで嫌気が差す。演劇作品との縁はその場限りで、その日を逃したら一生見ることができないことが多いのに、この1ヶ月弱でかなり多くの縁を逃してしまった。
私の中で記事を書くということは、考えていたことを一旦外に出して、新しいものを受け入れる余地を作る作業でもある。いっぱいになったノートのページをめくって、まっさら状態に進めるために記事を書く。
文字にすることで、零れてしまう部分もある。でも、文字にすらしなかったら、全部なくなってしまう。あまりにも書けなくて、過去の記事を読み返してみると、まだ覚えていることの他に、文字をきっかけに思い出したもの、忘れたことは覚えていること、たくさんのことを思い出した。
何が言いたいのかわからなくなってきた...。
記事にすることで、言葉になりようがないあれこれを、一旦「わかったもの」として形にすることで、私は前に進んでいたようなのだ。それなのに、刀ステはいつまでも「わかったもの」になってくれない。理屈のうえでは「明らかになったもの」「なっていないもの」「おそらくの要素」など、いろいろなことが整理できている。
できているはずなのに、どこかでそれが受け入れられない。
これで「わかったもの」としていいのか自分で自信が持てない。まだ何もわかっていないんじゃないか、何かを誤解してる、あるいはまるっきり見落としてるんじゃないかと不安でしょうがない。そのせいで、新しいものを受け入れる余地が削られてしまっている。
ここで、ありとあらゆることを「わかったもの」として固着することは、ある程度はできる...と思っていた。前に進むためには、ある程度の見落としや誤解はしょうがないと受け入れるしかない。しょうがない、しょうがない、しょうがない......本当に? 「しょうがない」の一言で、より大事なものを受け取れていないんじゃないかと思うと不安で仕方がない。
青年館と銀劇とライビュで、また何か受け取れるといいのだけれど...。今度こそ前に進みたい。