行く末トーキー

はじめからはじめよ

「推し」という夢

この記事は「行く末トーキー」の200記事目です! 記念にちょろっと書いてみようかなと思います。

ちなみに100記事目はこちらでした。お察しの通り記念日とかを祝うの大好きです。一旦の節目で振り返って、そこから前に進むための活力を得てます。

goodbye-talkie.hatenadiary.jp

今回は、推しさんのインタビューで心に残る一言があったから、それについて考えたことを書く。きっかけが推しさんの言葉ってだけで、推しさんについてがっつり話すわけではないので、名前は伏せておく...。

きっかけがこちら。

STAGE PASH! Vol.09 (生活シリーズ)

STAGE PASH! Vol.09 (生活シリーズ)

推しさんは、今年2月の下旬に靭帯再建手術を受けている。デビュー前(テニミュの稽古中)に靭帯が断裂してたこと、5年経ったこの時期に再建手術を受けたことは、手術後すぐ?のニコ生(02/27)とその後のブログで報告された。バーイベ(02/17)で匂わせもあったなぁ。

この雑誌の取材も手術後にされたようで、手術したことを伝えるかどうかについて、こういう下りがあった。(※ 名前は出したくないので若干改変あり)

手術せずに仕事を続けることも、手術する時期も、このことをみなさんにお伝えすることも、全部自分で決めました。実は黙っていることも考えたんです。ただ、仕事の期間が不自然に空いてしまうことで心配させたくなかったし、リハビリ中の姿を隠すことは難しいだろうな、と。(中略)

 

―― 言いたいか、言いたくないか? という自身の気持ちよりも、受け止める方々への思いが先にくることに視点の高さを感じます。

 

だって、この自分をつくってくださったのはファンのみなさんだから。先ほども言いましたが、応援してくれる方々がいるからこそ、この場所に居ることができるんです。だから一番心配をかけない方法を考えました。

この太字部分*1、ここを読んだときに、ものすごく、嬉しい...というか、この人を好きになれてよかったなぁ、と思った。

私が彼を知ったのはここ最近のことだし、劇場に行くようになったのはさらに最近だ。自分が好きで見に行ってるから「応援」だなんて大層な言葉を使える立場かどうかもよくわからない。でも、ほんの少しでも「この場所に居る」ための助けになれてる...としたら、ファン冥利に尽きるなぁ、と思った。

あと、この発言が私の考え方に近かったから嬉しいと感じたのもある。...私は、推しさんが作り出した「推しさん」という夢、幻想めいたものが好きなんだと思っている。名前出さないと書くのが難しいな...でも出したくないな...。頑張って説明しよう。

推しさんは、生身の人間だ。でも、生身の人間がそのまま私の前に立ってるわけではない。舞台に立てば「XXX役」という仮面を被るし、そうでないときだって「俳優としての自分」という仮面を被っているんだと思っている。どんなに生身に近づいたとしても決して同じにはならない「線」がどこかにきっと存在する。それは、彼が役者であり、私がそのファンである限り絶対になくならない境界線だ。接触でどんなに距離を縮めようとも、その一線から向こうへは踏み込めない。

で、線のこちら側、つまり彼の「俳優としての自分」を構成し、維持するためには、ファンの助けも必要だと思う。俳優としての仕事をつなぐという意味でもそうだし、多分手紙とかで伝えられる「こう思った」「こういうことですか?」という言葉も、彼の仮面にきっと反映されている。

彼は、その「俳優としての自分」を指して「この自分をつくってくださったのはファンのみなさんだから」と言ったのだと受け取った。だから多分この言葉が嬉しかったんだろうと思う。

線を引かれているということは、線のこちら側からすると、どうあがいても埋まらない距離、見ることができないものがあることと同じだ。推しさんは比較的いろんなことを率直に話す人だと思っているけれど、それでも線はきちんと存在する。絶対に見えていない、見ることができないものがある。

でも、私は、それでいい、むしろ線を引かれていること「が」いいと思っている。きっと線の向こう側では、ファンに伝えていないことがたくさんある。悩んだり、苦しんだり、つらい思いをしたり、触ると染みそうな感情だって転がっているだろう。でも、そういった感情が線を越えてこちら側に出る時は、綺麗にラッピングされている。

例えるなら、スーパーで魚の切り身を買うことと似ている。魚を捌くのはそれなりに難しい。血も出るし、なんかぬるぬるするし、生臭いし、できたら触りたくない*2。でもスーパーに行けば、そういった過程をすっ飛ばして、結果の「切り身」だけが手に入る。それと似たようなイメージだ。

生身の人間が感じたことというのは、なかなか重たくて、受け取るのに苦労するものが多い。生魚と同じように、血腥いし、ぬるぬるするし、どう触ったら良いものか、扱いに困ってしまうこともある。いくら彼のことが好きだからといっても、そういった感情を常に受け取り続けられるだけの強さは、私は持っていない。私自身の感情ですら持て余しがちなのに、もうひとり分の感情をそのまま受け取る余地は今の所ない。でも、推しさんが前もって綺麗に加工してくれた感情なら、どうにか受け取れる気がする。

だから、私が見ている、私の好きな「推しさん」というのは、推しさん本人が作り上げた「推しさん」という夢なんだろう。その距離を歯痒く思うこともあったけれど、今は距離に助けられてるなぁ、と思い直した。

なんか、そんなことをインタビューからつらつら考えた。考えたからといって、推しさんへの行動が変わることはないけれど、自分の中で、推しさんの居場所がストンと定まった感じがする。2月から今までいろいろあったけど、ここが定まったなら、多分もっと頑張れるだろう。

今日から、6月の舞台の稽古が始まったらしい。今から楽しみだー!

てことで、行く末トーキーをこれからもよろしくおねがいします!

*1:「自分」には推しさんのフルネームが入る

*2:ちなみに私は生魚が触れないし食べることもできない