行く末トーキー

はじめからはじめよ

半年

2016年12月29日に、初めて生で舞台を見た。今日はその日から数えて半年になる。荒牧慶彦という役者を生で見たのもこの日が初めてだ。いい機会だし、半年を振り返ってみようと思う。

何年も同じ俳優さんを推している人から見れば半年なんて吹けば飛ぶレベルの歴の浅さだ。でもまぁ飽きっぽい自分がこんなに続けてこられたのは自分でも感心する。えらいぞ自分。自己肯定感は大事だ。自分のことは全く信用もできないし好きでもなんでもないが、自分がかかわるものや自分が好きなものへのケチをつけたくはないし付けられたくもないので、無駄な卑下卑屈は書かないようにしている。

半年前のこの日が「初めて生で舞台を見た」日と書いたけれど、初めてこの世界に触れたのはもう少し前、刀ステ初演のBlu-rayを見たのがきっかけだ。それで興味を持って、再演があると知って、ビギナーズラックとかいうごまかしは効かず抽選も一般も轟沈し、それでも、と粘りに粘って毎日セブンイレブンに走って祈ってを繰り返してようやく見た舞台だった。

当日券というかキャンセル待ちでどうにか入った席だったから見切れ席だった。下手がだいぶ見えないところだったけれど、始まる前の高揚感は今でも思い出せる。番傘がずらっと並んでいて、客席がざわざわしてて、少しだけ音がかかっていて。銀劇まで来たものの見られるかどうかも微妙だったから、どこかにいるらしい神に感謝しつつその時を待っていた。

少しさかのぼると、私は筋金入りともいえる原作厨だった。だったというか、今でもそうかもしれない。原作への執着が強すぎて舞台やらアニメやらの情報は一切見ないようにしている作品がいくつかある。わざわざ人に吹聴してまわることでもないから何も言わないけれど。それ以外にも、実写化・舞台化を聞けば「またか…」とげんなりする気持ちはある。どうあがいても原作は越えられない。それが私の持論であり、今もそれは変わっていない。 こうして舞台を見るようになる前は、たくさんの「原作」をむさぼりながら、何を求めて舞台を見に行くんだろう、アニメを見るんだろうと思っていた。世界観なんて原作と想像力があれば無限に広がるのに、どうしてわざわざ高いお金を払って何か月も前から予定を繰り合わせて劇場に行くんだろう、そう思っていた。…今も少し思っている。前述のとおり私は自分を最も信用ならない人間だと思っているから余計に。3時間弱のために1万円近いお金を払って、取れるかどうかもわからないチケットにやきもきして、何してるんだろうね、とはよく思う。それがなければ本が少なくともあと2冊は買える。活字中毒で食費を削って書籍代に回している身としてはだいぶ惜しい。

ではなぜ私は舞台を見に行くのだろう。何か月も前から予定を空けて、1万円近く払って、わざわざとれるかどうかもわからないチケットにやきもきして、服装とかマナーも気を付けて。

半年経った後の自分の答えは、まだうまくまとまらない。多分、そこに新しい解釈の余地を見つけに行くんだろうと思う。

私が主に見ている2.5次元と呼ばれる舞台は、原作があってこその舞台だ。全員がそうかはわからないが、少なくとも今の私が一番好きだと思える役者さんは原作を読み込んでいる。読み込んで、そこに「自分が演じる意味」を見出そうとする人だ。それって、とっても贅沢な解釈の仕方だと思う。頭や手だけじゃない、全身を使って解釈ができるだなんてとても羨ましい。

活字食らいの私は、何か好きな原作があってもそれを人と語り合うことができない。自分の言葉が相手に伝わらない。話せば話すほど、相手との距離が開いていってしまう。最初のうちは少し寂しかった。好きだというから、どんなところがどういう風に好きか知りたいだけなのに、私の言葉は全然届かないし、相手の言葉は全然足りない。もっと知りたいのに大抵ほんの少ししゃべっただけで「もう十分」と言われてしまう。世の中そんなもんだろうと思っていた。

そこに、あんなに贅沢な解釈を見せつけられたら好きにならずにはいられないじゃないか。

しかも、どんなことを考えたのか放送なりブログなりで補足してくれる。私が解釈を長く語っても「もう十分」と言ってこない。こんなにおいしい世界はそうそうない。だから私は、多少の不便を強いてでも劇場に赴くんだと思う。

応援したいとかそういう綺麗な気持ちは多分一切持ち合わせていない。そこにあるのはもっと知りたいといういつも通りの薄汚い欲だ。そのために利用できるものは全部使いつくしてやらないと満足できない。そんな気がする。

あとどのくらいで飽きるかは私にもわからないけれど、まだしばらくはこの場の食べ物をあさって見ようと思う。もちろん、節度は守りつつ。