さっっっむ! というかもう10月も下旬だ。時の流れ is too fast.
鑑賞の記録
- タイトル:舞台「刀剣乱舞」山姥切国広単独行 -日本刀史-
- 日時:2023/10/21 18時
- 場所:天王洲 銀河劇場
雑感
今日もなんか胸いっぱいになってしまった。そりゃまぁ同じ作品を見てるんだから感想も似たものになるのは当たり前なんだけど、初日見た時から感動が全く薄れなくて、そのことにもびっくりする。話の流れも全部知ってるのに毎回新鮮にぐっと来るし、新鮮にまんばちゃんの旅路を祈る。そして自分の本丸の山姥切国広に会いたくなる。
そういえば、この作品って客席が静かだよね。銀劇が(私が最近経験した会場としては)小さめなのもあるんだろうか。ロビーはそこそこざわめいているし、客席で話している人もゼロではないんだけど、開演直前にはしんと静かになってみんなが舞台を見ている。2幕直前もすごいよね。好きポイントだらけだけど、あの瞬間が一番好きかもしれない。いきなり始まる2幕。なんとなーくBGMの音量が上がって、みんながスマホを消して、それから客電が落ちるっていうありがちパターンではなく、ばつんと空気が切り替わる。それで行けると踏んだ制作陣と、受け入れる観客たち。なんかね、あの静けさはミラステを思い出す。散華行の途中で山姥切国広の極が発表されたのでちょっと懐かしい。
刀ステのまんばちゃんは山姥切国広の中でもかなり特殊な経験をしている個体な訳だが、修行の旅の中身というか、修行を経て得たものはうちの山姥切国広とそう変わらないのかなぁという気がする。山姥切国広は堀川国広の傑作であると同時に本作長義以下58字の写しでもある。本科山姥切はもちろん、堀川作刀の間でもずっと比べられてきた。そんな彼の中には、何事に対しても唯一絶対の正解・基準があるという信念、あるいは思い込みがあるんじゃなかろうか。でも、修行の旅で「どちらが山姥を切ったのか、あるいは切っていないのか」が非常にあやふやな状況を経験して、今まで信じてきた唯一絶対が揺らぐ。その結果、自分が何者であるかを自分の言葉で語れるようになって帰ってくる。
まんばちゃんも大筋は同じ。山姥を切ったかどうかに加えて、彼には三日月宗近という大きな迷いを抱えている。三日月が何を考えていたのか=唯一絶対の正解を知りたがる。でも三郎に「知ろうとするな」「思いを馳せろ」と繰り返し言われ、自分なりに三日月とのやり取りを振り返って、自分なりに「三日月宗近を信じる」と結論を出す。常に外側に答えを求めてきたまんばちゃんが、初めて自分の内側を認めた。だからこそ主からの気遣い(つまり愛)の象徴でもあるふくのすけが倒れてしまった時にまっすぐ強さを求められるようになったんじゃないかな……みたいなことを3週目にしてようやく理解した。
初の頃は「綺麗とか言うな」だの「俺なんか」だの、周りの言葉を跳ね除けてばかりだったまんばちゃんが、自分に向けられた気遣いをきちんと受け取って、それが損なわれたことに憤る。この成長が一番眩しく感じる。禺が愛する側の物語だとしたら、単独行は明らかに愛される側の物語だよな。山姥切国広という刀が、まんばちゃんという存在がどれだけ愛されてきたかを思い返す時間だからこんなに感動するのかもしれない。
プラス、末満さんはきっと今の荒牧さんならできると信じてこの作品を書いた訳で。物語への、役者への、観客への愛情が目一杯詰まっている。どこを向いても愛しかない。そりゃ感極まりもするわな。
というか、石出んばちゃんの芝居がガラッと変わっててびっくりした。ここまで変えてくるパターン初めて見た。初日・先週はどちらかというと厩戸皇子んばちゃんに近いトーンだったのが、今日はもっと低く落ち着いた感じになってた。年齢上がってた。え~~~~どっちも好き~~~~~!!!! こういう変化も単独行ならではというか、ほぼオリジナル部分だからこそだよね。これは京都と福岡も楽しみすぎる。最後にはどんなところに行き着くんだろう?