おやおや?
鑑賞の記録
- タイトル:劇団おぼんろ第26回本公演「ラルスコット・ギグの動物園」
- 檻の外の物語 / ゲスト横井翔二郎
- 日時:2025/09/15 13時
- 場所:Theater Mixa
数年ぶりに軽率ムーブかました。だって2階席まだ売ってたんだもん……今日は祝日だったんだもん……
軽率ムーブに出せるのは最大でも8000円くらいだなぁと冷静に考えつつ再び池袋に行ってきた。席種分かれてると「端でいいからもう1回」がやりやすくていいね。
結論から言うと両方見て良かった~~~!ってなった。そして中パターンがもう1回見たくなる。私みたいに中→外と見た人と、外→中で見た人とで印象が違いそう。ゲスト(ガコワラデイナ)の登場シーンや行動はどちらも同じだけど、役者によってこんな違うのか!という発見もあった。名乗らないカラスことパスケース横井さんのお芝居がっつり見たの初めてか……?違ったらごめん。
12日に見た「檻の中の物語」の感想はこちら
あと2階席だから床の模様見てきた! 綺麗だった。舞台の広さがどのくらいかは分からないけど、あの模様を全面に描ききった執念はちょっと怖いなと思った。開演前、通路を最前まで来ても列には入らないまま戻っていく人が何人かいたから、1階席でも見に来てよかったらしい。そういえば2階席は3ブロックあった。真ん中通路は1階席だけの構造。
アナグラム
- イヌ:タシギリガ → ギリガタシ → 義理堅し
- バク:ノイキリコ → イキノコリ → 生き残り
- クマ:ケダカミーシオ → ミカケダオシ(ー)→ 見掛け倒し
- タヌキ(レッサーパンダ):ヨッシュキューニン → ショーニンヨッキュ? → 承認欲求
- ヘビ:ルタツクニイア → アイニクルツタ → 愛に狂った
- カラス:ガコワラデイナ → コワガラナイデ → 怖がらないで
- チノイ → イノチ → 命
- ラガキナ → ナキガラ → 亡骸
その他、声のみの出演だったゾウは「クレバオーヌ」、あと作中にライオンとゴリラとカンガルーの名前が出てくる(聞き取れず)のと、あと動物の種類は分からないけれど名前がいくつか挙がった……ような気がする。ハシビロコウは日替わり要素なので除外。
乾杯の挨拶もアナグラムっぽいんだよな。すごく長かったことだけ覚えている。
末原さんのTwitter(X)曰く、ゾウのクレバオーヌは別の作品の主人公らしい。「狂った象のクレバオーヌ」で調べたら2020年の上演レポートが出てきた。…………………これは後で考えるとして。
ここからがっつり差分の話をする。
中と外の違い
- ラルスコットの存在
- 中:佐藤さんが演じている
- 外:舞台上には存在しない。ギグは宙に向かって話している(ラルスコットの台詞はギグが思い返した部分だけ分かる)
- 真相の告白
- 中:思い出せない(ギグが洞窟へ向かった後?)
- 外:謁見前夜、ケダカミーシオたちがタシギリガに問う流れで明かされる
- ラストシーン
- 中:ラルスコットとギグの会話
- 外:ガコワラデイナとラルスコット以外の全員による穏やかな酒盛り
他にも「これ中/外にあったっけ?」みたいな差分はちらほらあったけど、とりあえず大きくこの3つだと思う。
中は「ギグから見た物語」で、外は「ギグ以外から見た物語」なのかな。でも、外のラストシーンが分からんのよな。序盤からラルスコットの存在を疑っていたノイキリコが「ラルスコットからもらったんだ」と酒瓶を持ってくるし、ギグは名誉市民になった後だし、ルタツクニイアは穏やかに「ギグ(とラルスコット)に立派な家を建ててやろう」って言ってるし。ここだけ誰かの夢っぽい。誰のだろう。ギグか、あるいはノイキリコか。ここの差分を噛み砕きながら電車に乗って帰ってきた。今日は遅延なし。
その他雑感
中と外の差分もだけど、一通りの話を知った状態で見ると、序盤からそれぞれの本心を滲ませてるのが分かって「おああ~」ってなる。特にルタツクニイア。結局なんで赤子を拾ったかは分からないままなんだけど、それでも彼女なりに坊やのことを愛していて、失った悲しみを100年経った後も生々しく覚えていることが分かる。そもそもギグをけしかける時に使った理屈も、多分坊やとの出会いから来てるんだろうし。
あと、荒牧さんと横井さん、ふたりのガコワラデイナを見たことで、ガコワラデイナが持つ役割みたいなものもちょっと分かってきた気がする。ガコワラデイナは「意味のわからないことを喚きながら命を奪う」存在で、死というものの理不尽さが凝縮されたキャラクターなのかな。
というのも、横井ガコワラデイナも相手の言葉を返しはするが、その返し方はすごく差があったんだよね。まさしくオウム返しといえる声音もあったし、わざと正反対に振った時もあった。あと早口言葉に挑戦させられていた。そして最後の「言ってくれ、死には意味があると」の直前に一粒だけ涙を流す*1。「何もしない、できない」の後の表情も、どことなく、なんというか、ほっとした……じゃないけど、静止の中に違うものが混じっていそうで。「死」という理不尽に向き合いたくないけれど向き合うしかない、どうしようもない狂気みたいなものを感じた。ガコワラデイナもかつてはごく普通のカラスだったけど、何らかの事情を経てこうなってしまった……って可能性もなくはないなと。なぜか死ねなくなってしまった存在の成れの果て。今は「カラス」という形だけれど、次のガコワラデイナは「ヘビ」かもしれないし「バク」かもしれない。そんな風に感じた。
一方の荒牧ガコワラデイナは死の超然性が強く出てて、横井ガコワラデイナを見た後だとなんとなくエジプトの神っぽい印象を受けた。荒牧ガコワラデイナは彼自身の意図を滲ませるように返すけれど、横井ガコワラデイナはただただ反響させて相手に解釈を委ね、その後の流れは相手に任せる、みたいな。うまくいえないけど全然違ったんだよ~~~~~! 他のガコワラデイナも気になりすぎる。というかそれぞれが何を考えどういう風に演じたか、ガコワラデイナ座談会開いてほしい。ゲスト形式ってこんなにおもしろいんだね!
そんで、あのラストは一体なんだったんだ……? 分からん。考えても考えても分からない。ノイキリコが見た夢、なのかなぁ。タシギリガのグラスだけ遠くに置かれているのは偶然か必然か。「愛」と同じくらい「夢」もめちゃくちゃ重要なキーワードに見える。「ラルスコット・ギグの動物園の動物たちはいつも愛にあふれて幸福です」ってのは、ギグが最終的に抱いた夢なのかな。ただ懸命に手を伸ばす「夢」。原動力でありながら苦しみの根源でもある愛と夢。逃れようのない檻。外と中を隔てるもの。そういえばヨッシュキューニンは「まあ僕は通れるんですけど」ってすり抜けてたなぁ。あれも何か意味あるのかな。
裏であり表、表であり裏。片方見るだけでは分からなかった部分がぐわーっと迫ってきて頭の中が忙しない。分からないことだらけで面白い。クレバオーヌと同時期に上演した他2つも気になる。こうして人は世界観にハマっていくのだ……。
*1:カテコでの発言を聞く感じ、狙って流したものではなさそう