行く末トーキー

はじめからはじめよ

死角 ― クロードと一緒に

劇場を出ると小雨が降っていた。傘を出すのが面倒だったから少しだけ濡れて帰った。

観劇の記録

  • タイトル:Being at home with Claude ~クロードと一緒に~
  • 日時:2019年4月14日 19時半(Blanc / プレビュー公演)
  • 場所:横浜赤レンガ倉庫1号館 3Fホール

こんなところにホールがあるとは思わなかった。せっかくだからついでに散策しようと思って、中華街~山下公園を見て回った。特にすることもなかったから山下公園のベンチで本を読んだ。途中で連絡船?が出港する汽笛を何回か聞いたと思う。

座席位置

発券したときから不思議な座席番号だなぁ、と思っていたら、舞台の作り方が一般的なものではなかった。

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こんな感じ(久しぶりのペイント1分クオリティ)。茶色の四角が舞台、灰色の四角3つが客席、星が入り口。私が座っていたのは入り口から一番遠いブロック。調べた時の写真で全席フラットを覚悟していたんだけど、どのブロックもいい感じに段差が付いてたので前の人が被って見えないってことはなかった。

この作りだから、どうしても「自分には見えていないけれど他の人からは見えている」ていう瞬間が生まれる。逆に言えば他の人からは見えていないけれど自分からは見えている瞬間もある。ダブルキャストを全ブロックから見たくなりますわこれ……。

雑感

全ブロックから見たくなる、って書いたけれど、正直「見てよかった」と手放しでは言えないし、他の人にも勧めづらくはある。出来が悪いわけではなく、むしろ出来が良すぎるからめちゃくちゃ持って行かれる。終わってから雨に濡れながら駅まで歩いて電車を待ってる時、スマホの電源すら入れず、ただ手が震えてるなぁ、と感じながら、今ここで線路に飛び込んでもいいかもしれないな、とぼんやり思ってしまった。横浜から戻ってくる電車の中で、目を閉じたら吐くか泣くかしてしまいそうで、必死にスマホの画面を眺めていた。

そもそもなんでこれを見に行ったかっつーと、↓の写真を見てなんとなく呼ばれているような気がしたからだ。

こういうときの直感は絶対に外さないので、見た瞬間にチケットを抑えていた。この人の出る作品はこういうパターンが多い。先行で取ったことはない。

ある意味でものすごく異質な空間だった。全員がたった一人に注目し、息遣いすら聞き逃すまいと静まり返っている。静かすぎて耳鳴りがする。時折かすかに汽笛が聴こえる。始まる前は外の喧騒が少し聴こえるな、やはり専用の劇場と比べたら防音性は劣るのかな……なんて思ったんだけれど、よく考えてみれば私が座ったブロックの後ろには壁を挟んで通路があるわけで。じゃあ私が聞いていたあの音は何だったんだろう? と恐ろしくなる。

どういうお芝居だったか、というのを言葉にするのはとても難しい。単純に情報量が多いのと、的を得ず回りくどい台詞、時系列がめちゃくちゃに描かれるシーン、死角に入った時の表情、聞き慣れない名詞、そういったものが混ざり合って半分も理解できなかったと思う。というか理解できるとも思えなかった。「彼」は理解してもらいたいと思っていないように感じた。他人が理解したか/理解できるかどうかと、「彼」がその時何を考えてどう動いたかは全く切り離して考えるべきで、多分どう受け取ってもそれは彼自身が感じたこととは全く違うものなんだなぁ、という感じ。

なんでこんなリアルな感情を出せるんだろう。「彼」を見ていると羨ましくてしょうがなくなる。私が生きている世界のほうがリアルなはずなのに、私が見ているもの、感じたものがすべて薄っぺらくなってしまう。ここまでの幸福を感じたことがあっただろうか? ここまで誰かを愛することがあっただろうか? 愚かだけれど十分に鮮烈で、この身を苛むほどの感情をどうして感じたことがないんだろう。羨ましい、妬ましい。こんなことしか考えられない自分の浅ましさに嫌気が差す。自己嫌悪で今からでも線路に飛び込んでしまいたい。月曜日だし。

「彼」を見ていると本当に自分の嫌なところばかりが目についてしまう。ああ嫌だ嫌だ。あの目に射られると、自分が見ないようにしていたものを的確にえぐられるような気がして嫌になってしまう。ましてや指されたらと思ったらたまらない。本当は見ないほうがいいんだろうな、とは思うんだけれど、時折どうしても見たくなってしまうんだろうね。

これ以上考えてるとさらに消えたくなるからこのへんで。