行く末トーキー

はじめからはじめよ

舞台作品であるということ ― 舞台「刀剣乱舞」悲伝 結いの目の不如帰

怒涛の2日間だった…。

観劇の記録

  • タイトル:舞台「刀剣乱舞」悲伝 結いの目の不如帰
  • 日時:2018年6月3日 17時半
  • 場所:明治座

これから刀ステ見る方はこの記事をスルーし、できる限り過去作品を見返して観劇に備えてください。

作品以外の話

朝からトレーディング頑張ったら、昨日の疲れもあって体がバキバキになった…。めっちゃいい天気なのはいいんだけれど、暑いし、色紙とかファイルが入ってる袋の反射が眩しいし、昼過ぎには風が強まるし、なかなか疲れました…。トレーディング頑張るのいつぶりかなって振り返ったら、ジョ伝がそろそろ半年前の出来事になると気づいて自分でもびっくりです。oh。時の流れが早すぎる。

座席は2階後方のほぼドセン。せりあがるところは2階のほうが見やすいというか気づきやすいね。昨日は初めてということもあって「なんか気づいたらそこにいる」状態だったけど、今回はほぼせりあがるところを確認できた。あと照明の色も結構凝ってることに気づいたりできる。こういうところが舞台のいいところだよなぁ。

雑感

そう、これは舞台作品なんだなぁ、と開幕前に気づいた。当たり前のことなんだけれど、全然当たり前だと思っていなかった。

少し前に、フォロワーの同担さんが、TVドラマと舞台作品の違いについて言ってたことがある。TVドラマは複数回に分かれていることが当たり前で、物語の結末は最後まで見ないとわからない。それに対して、舞台作品は1回で完結している。同じ作品を何度上演しようとも、物語の結末そのものは初回公演で明らかになる。そんな感じの話だったと思う。*1

その話を見てたときは、そりゃそうだよな、くらいの感想だった。何を今更、というのが近いかなぁ。

でも今日、始まる前に、ざわめきの中でぼんやりと舞台を見ていて、ああ、こういうことなんだな、と腑に落ちる瞬間があった。

今日この公演を見ても、三日月が刀解される結末は変わらない。時鳥の太刀は折られ、黒甲冑は消え、まんばちゃんが慟哭する未来は変わらない。こちらがどんなに大団円を望んだとしても、その結末は覆らない。

ならばなぜ、私はこの作品を見るんだろう?

そこまで考えて、三日月ももしかしたら同じような問いを繰り返しているのかもしれない、と気づいた。

なぜ、自分は戦うのだろう?

細部は異なれど結末は同じ物語を繰り返しながら、何度も何度も「なぜ」と問い続けているのではないか?

交わらない物語

時鳥が不動・長谷部と対峙したときに「歴史は過去の出来事の寄せ集めだ…でも、今はそうじゃない」みたいなことを言う。時鳥にとっての「物語」は今まさに築かれている真っ只中で、その結末は見えていない。けれど、不動や長谷部にとって、時鳥の「物語」はすでに完結したものだ。そこにどうしようもない捩れがある。これ、ジョ伝で弥助を見たときにも同じようなことを考えた。

弥助が「私は本能寺の生き残り」と言ったときに、弥助にとっての歴史は「今この瞬間」にしかないんだと思ってそれもなんかしんどかった。本丸からは何度も同じ場所に遡行して同じ歴史を見ることができるし、たらればの世界を覗き見ることもできるんだけれど、その歴史を生きる人にとっては、今この瞬間だけが本当なんだなと思うと...弥助が遡行軍に与するのもわかってしまう...。

1 ― 舞台「刀剣乱舞 ジョ伝 三つら星刀語り」 - 行く末トーキー

刀剣男士たちは、刀としての物語の上に、新しく「人の身を得た存在」としての物語をつくっていく。修行に出たものは、さらに1段階上、今の主(=審神者)に使える人間としての物語を紡ぐ存在だと思っている。だから、「刀としての物語」は彼らにとって過去の話である。でも、歴史の中で今まさに生きている人たちにとってはそうではない。そこの捩れが、時鳥と彼らが分かり合えない理由なのかもしれない。

でも、人の身を得た存在としての物語は、まだ完結していない。だから三日月の話は終わらない。終わっていない。さらに未来から見たら結末が明らかだったとしても、三日月たちはまだ物語を続けなければならない、そんなことを考えた。

何を守るための刀か

三日月が時鳥に義輝を守らない理由を訊かれたときに、三日月は「今は歴史を守る刀となったからだ」と答える。三日月は永禄の変で振るわれることがなかった。主を守るための刀が、主によって振るわれることなく次の主の手へ渡る。それが刀の物語にとってどのくらい大きな出来事かはよくわからない。けれど、無念であったとは思う。

そして、2205年、歴史を守る刀となった三日月は、自分が守るものの不確かさに気づいてしまう。歴史を守るための戦いとはいえ、本当に歴史は守れているのか、そもそも歴史とは守れる存在なのか。刀であった頃、主を守ったという確たる実感がないこともあって、そこで「なぜ戦うか」が見えなくなっちゃったのかなぁ…。だぬだぬの説教がほしい。

そこで「なぜ戦うか」の理由に立てられたのが、まんばちゃんとの約束だったのかもしれない。光忠に刃を向けた理由になるほど、守ることに執心する約束。幾度となく繰り返される円環の果ての戦いで、三日月が「歴史の名残」となるほどの約束。多分最初は、単なる手合わせで出た口約束だったのかもしれない。それこそ、茶請けの羊羹をかけて戦う→三日月勝利→まんばちゃん激怒からの「次は俺が勝つ」くらいの、そんな軽さで。でもそれが、三日月にとって本当に大事な約束になる。そこがまだ飲み込みきれていないなぁ。

全然見当違いのことを言っているのかもしれないけれど、三日月だって人の身を得てからの歴史は浅いことは確かだ。本当に幼い子どものような純真さで、自分をまっすぐに見たまんばちゃんの、天下五剣だからでも、美しい刀だからでもない、ただの「三日月宗近」として交わした約束を大事に思っているのかもしれない。

なんか、自分の本丸に帰りたくなったなぁ*2

pocketという希望

ここからは単なる妄想レベルの話なんだけれど。

三日月が結いの目から脱する条件が、まんばちゃんとの手合わせに負けること=破壊になるのかな、と思ったらなんかすごく悲しかったのでどうにか生存ルートを考えてみた。

まんばちゃんが、初めから結いの目のことを知っている状態なら、まだ何かできるんじゃないか? → どうにかして今の記憶をなくさないまま過去に戻りたい → まんばちゃんも三日月に巻き込まれて過去に戻ればあるいは? → でも戻ったとして「初期刀」のまんばちゃんと、そうでない三日月はどうしても顕現時期がズレる…からの、とうらぶ世界で唯一「山姥切国広」と「三日月宗近」が同時に顕現する時系列を思い出した。

刀剣乱舞は、2016年3月から「刀剣乱舞pocket」としてスマホアプリが提供されている。このリリースを記念して、pocketで新しく始まった本丸には、小狐丸と三日月宗近が配布された*3。リリース当初は、ブラウザ版で最も入手が難しい2振りが最初からいるなんて羨ましい、なんていう意見も結構出た。

ゲーム内の規則を最大限活用するならば、山姥切国広と三日月宗近が同時に顕現するのは、ここ「pocket」しかない。ただの妄想なんだけれど、どうにかして、三日月もまんばちゃんも、あの本丸のみんなが救われる道がほしかった。それだけの話だ。

最後に

この作品を何度も上演するというのが、擬似的に三日月の絶望や諦念を体験できて、なかなかエグい仕組みだな~と思っている。それは時鳥についていきたくもなる。だからこれは、舞台作品であることを最大限に活かした作品だ。

明日からも頑張ろう。

*1:私信:勝手に載せてごめんなさい>< 違ったら教えてください~

*2:隣の窓で玉集め中

*3:RT数が足りていれば数珠丸恒次も配布されるはずだった