行く末トーキー

はじめからはじめよ

演じてみた

舞台を見に行くようになってから、演じるってどういうことなんだろうと不思議に思っている。

ので、ちょっとワークショップなるものに参加してみた。経験なんて全然ないし、たった数時間の体験なんて素人の付け焼刃以下だけど、やらないよりはやったほうが近づけるかなーと思ったからだ。興味があるなら、できるうちにいろいろやっておかないと、いずれ後悔するかもしれないし。

演じるということは、意志疎通を図るものらしい。

らしい、なのは数時間の経験では断言できるだけの根拠を得られなかったから。で、意志疎通というのは、伝える側もそうだけど、伝わる側がちゃんと「届いたよ」とサインを出さないといけない。これが結構難しくて、届けようとしてるのに気づけなかったり、勘違いしてしまったり、うまくいかないことの方が多い。伝えるにしても、言葉に頼りっぱなしで、言葉を使わない縛りでは何も動けなかったり。というか、言葉で伝えるのだってうまくいかないのに言葉も使えなかったらそりゃダメだわ。当たり前か。

私が好きな人たちはこういう不自由な世界に立ってるんだな、と思うと、少し恐ろしくなった。

舞台の上の意思疎通は、板に立つ人たちだけで完結するわけではない。見てくれる人がいて初めて「劇」として成立するんだと思う。見てくれる人のいないエチュードはどちらかというと「ごっこ遊び」だった。ほんの数分の短い「演技」でも、見る人が笑ったり、驚いたり、といった反応で「今のはよかったのかな」とか、「もうちょっと見やすい位置に行った方がいいな」といった距離感をはかることができた。映像作品にはない、見る人と演じる人が同時に同じ場所にいること、同じ時間の流れを共有してるということの意味を少しだけ感じることができた。

翻って、私は彼らと意思疎通ができていただろうか。彼らの届けようとしているものをきちんと受け取れているだろうか。もしかして、彼らが演じている「キャラクター」にばかり夢中になって、彼らが伝えようとしているものを取りこぼしてはいないだろうか。伝わっているかもわからない不安と戦いながら板に立っているのではないか。プロなんだからそのへんはうまく処理してるのかもしれないけれど、少なくとも私は「伝わらないかもしれない」と思うことがとても恐ろしかった。

多分ほとんどは取りこぼしてしまってると思う。だってそんなこと考えてもいなかったから。それなのにあれがよかったこれがよかっただの、上っ面だけの感想を述べていたんだと思うと、なんというか自分の見たい世界しか見てなかったんだろうなーと愕然とした。そりゃまぁ趣味なんだからわざわざ見たくないものを覗き込む必要はないのだけれど、彼らの伝えようとしたものをほんの少しも受け取れなかったのに満足しているなんて、どれほど愚かだったんだろう。生きる世界が違うとはいえ、彼らだって人間なのだ。キャラクターそのものに見えても彼らが伝えたいことは別にあるかもしれない。

過ぎたことはどうしようもないから、これからはきちんと「受け取ったよ」「届いたよ」と伝えられる存在でありたい、そう思えた経験だった。