行く末トーキー

はじめからはじめよ

どうか、 ― 極上文學 第12弾 「風の又三郎・よだかの星」

お声がけいただいたので見てきました!

観劇の記録

組み合わせ

※ 演出を含めガッツリネタバレしています。

座席位置など

お声がけいただいた、というか、CLIE名物(?)のおともだちケットを使いました。紹介者は限定ブロマイドをゲットできて、私はそこそこ安価にチケットを買える+「おともだち」という響きににやにやできる(根っからのコミュ障)ので、それなりにいい制度だと思います。もとから行くかどうか迷ってた+行くとしたらどの組み合わせにするか迷ってたので、最後のひと押しになりました。

てことで座席は後方下手でした。まじで自分の座席運が安定しすぎててなんとなく予想できるよね...。去年は上手ばかりで下手が恋しかったけれど、こうなると上手が恋しいです。というかバランス良くバラけてほしい。

底本は両方ともかなり前に読んだきりだったので、直前にさくっと読み直してから臨みました。どちらも青空文庫に収録されています。

宮沢賢治 風の又三郎

宮沢賢治 よだかの星

雑感

始まる前から具現師たちが客席でわちゃわちゃしてたのもあって、幼いころに楽しみにしてた読み聞かせの時間っぽいなぁと軽く懐かしさを感じた。本を片手にそれを読みながら、というスタイルの演劇を初めて見たので余計にそう思ったのかもしれない。読み聞かせって、自分で文字を追うのとは全然違う経験だ。自分が読んでいるときも情景を想像して世界を広げることはできるのだけれど、読み聞かせだと「世界を広げる」ことに集中できた、というか...。いろいろな声音で聞き取る物語のおかげで、自分で考えるよりも多くのことを想像できていたと思う。この作品で見た光景に、そういう「いつかの体験」を重ねたのかもしれない。

作中の「本」の使い方が好きだなぁ。台本でもあり、小道具でもある。ときには登場人物そのものにもなる。川を渡るシーンでの使い方は、当事者でないからこそ「あ~~~~~すごい...」って感心した。めくるタイミングを揃えているときは、一緒に同じ本を覗き込んでいるようでわくわくした。なんというか、同じ一つの物語から生まれた複数のキャラクターなんだな、とわかる仕草のような気がする。又三郎や一郎、嘉助は「本」の中にしか存在しないし、彼らの時間は1冊の本、つまり同じ物語の中で「同時に」流れてるんだな...みたいな。上手く言えない...。

それに対して、よだかが飛んでいるときに、本は「ページ」に断裂する。前後にあったはずの時間の流れから断ち切られて、ただ1つの場面だけが繰り返し現れる。この表現を見て、よだかは本当にひとりぼっちで、時間の流れをともにする相手がいなかったんだなぁ...と気づいた。ページに断裂していないときも、よだかはひとりぼっちで語りかける。どうか、どうか、どうか。

「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」

表記上は「どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。」だから、そのまま読めば「どうか」の後ろに空白は生まれない。でも、よだかは常に縋るように、「どうか」の後に空白を置く。誰かと共に時間を過ごすことができないよだかは、時間を知らない星に縋る。それもすべて拒絶されて、最後は自分で飛び続け、星になってずっと輝いているけれど、よだかはずっとひとりぼっちだ。

だからこそ、又三郎が「友達」と言ってよだかの本に自分の本を重ねた瞬間は、ふたりが一緒に時を過ごすことができる暗喩のように思えた。

混線する物語

最初、風の又三郎よだかの星を演じる、と聞いた時は、又三郎の話が終わってから暗転なりの場面転換が挟まって、よだかの話に移るのだと思っていた。けれどこの作品はそうではない。又三郎の話の中によだかの話が含まれている。又三郎の話の中では先生だった人が、よだかとして生きた物語を、生徒たちが音読する。この構造を予感した時はちょっと鳥肌が立った。よだかの話の中では、よだかは最初から最後までひとりぼっちだ。でも、外側の又三郎の話まで含めると、よだかは孤独ではなくなる。又三郎はよだかの友達になるし、川せみは「行かないでほしい」と繰り返す。このゆるやかな混ざり方で、よだかがひとりぼっちでない可能性を感じた。切り替わりで日替わりを持ってきたのもすごい好き。藤原さん(よだか)はカテコで「出づらい!」って言ってたけど、いい感じにメタくて、これまで物語の外側にいた語り師が講師として混ざってくるのも良い。あのシーンで、又三郎の話・よだかの話・現実世界の3つが混ざり合って、自然によだかの話に切り替わっていく。一斉に「よだかの星」と朗読が始まったときはぞくっとしたなぁ。

混線といえば、一郎の「弟」の存在はどこから生まれたんだろう。最初、弟の話をし始めたときは、もしかして読み落としたかとびっくりしてしまった。でも今あらためて底本を読んでも、一郎の弟はどこにも出てこない。ここだけはなんか不思議な感じがする。又三郎(三郎)の正体以上に、弟がどこから生まれた存在なのかが気になる。弟は最期、一冊の本になり、白い布に包まれて消える。弟は一郎や又三郎と同じ時間を過ごす、つまり同じ物語の中の存在だったのかなぁ。どこかから混ざってしまった存在のようにも思える。しかもこのキャスティングが絶妙に誤解しやすい...一覧では「弟」とあるから、多分「よだかの星」における「よだかの弟=川せみ」なんだろうな、って思ってしまう。実際、川せみと弟は同じ人物が読んでるし。上にあるのが「一郎/鷹」だから、余計に騙された。まじで「弟」だった。よくできた表記だよ...。

そういえば、最初と最後の文章は、又三郎でもよだかでもなく、注文の多い料理店の序文だった。これは終わってから調べた。

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

宮沢賢治 『注文の多い料理店』序

又三郎の話を軸としながら、現実・よだか・料理店そして弟の存在が絶妙に混ざり合ったバランスで成立していた。これがいいことなのかどうかは、私にはわからない。聞き手が退屈しないように、その場で継ぎ接ぎした物語のようにも思える。底本通りに進まない、わがままな物語のようにも思える。どちらであっても、この「物語」はこの場にしか存在しないというアイデンティティを持ってたように思う。しかも全公演組み合わせが違うという...。1回限りの物語かぁ...。寝る前に聞く物語で、毎日違う話をされるのだけれど、昨日聞いた話が気になって、別の話をしてる最中にも「ねぇ、あの人はどうなったの?」って訊いた結果生まれた物語みたいだ。

終わってから劇場を出るまでにちょっと時間がかかったのだけれど、途中から具現師のみなさんがお見送り→「おらたちも下降りる~」とロビーに出る→「写真ごっこ楽しい!」とわいわいしてたのが、「文學」と「現実」の境目を混線させる効果もあった...のかもしれない。

過去作が配信されてるし、その中には推しさんが出てるものもあるので少しずつ見ていこうかな。

追記

(2018年3月11日 10時)

一郎の弟(楢夫)の話は、宮沢賢治の「ひかりの素足」から来ているそうです。

宮沢賢治 ひかりの素足

また、注文の多い料理店の序に続けて、詩からも引用されていました。

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

宮沢賢治 疾中

思った以上にいろいろなものが混じり合って「すきとほった風」になっているのだと思うと、ちょっと見え方が変わりますね。